南田島の石仏

南田島新河岸川左岸 川越市南田島495[地図]


旭橋の東、100m先の信号のない交差点を右に曲がると新河岸川沿いに古市場、渋井方面へ向かう。ここを左折して細い道を北へ進むと、道路左側の田んぼの中に小堂が立っていた。後ろに新河岸川の土手が見える。


小堂の中 地蔵菩薩立像 享保21(1736)四角い台の上に小型のやや丸みを帯びた石塔部。蓮台の上に堂々とした姿の四角いお顔の地蔵菩薩像。丸彫りの古仏だが、首に補修跡がないのは村の人々に大事にされてきたということだろう。


近づいてみると像はだいぶ風化が進み、顔の一部は溶けだしていて目鼻立ちは今一つはっきりしない。錫杖、宝珠とも欠けてはいないが、やはり摩耗していて、錫杖の柄の部分には補修跡があった。


塔の正面 中央に「念佛供養」両脇に造立年月日。右側面の奥は確認が難しいが手前に南田嶋村とあり、左側面には願主一名の名前が刻まれている。


小堂の左脇に馬頭観音塔 文化10(1813)が立っていた。大きな四角い台の上、駒型の石塔の正面に三面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。こちらも風化が目立ち正面の顔はつぶされているようだ。台の正面に「惣村中」と刻まれている。


三面のうち左の顔だけは健在、どうやら忿怒相である。頭上の馬頭も確認できるが、ここでちょっと問題なのは、体の前で組まれた両手が馬頭観音特有の馬口印ではなく、大日如来の智拳印のように見えることだ。これはとても珍しい。私は過去に一度だけ、南区南浦和の寶性寺の墓地で見かけたことがある。(2014.07.08の記事)貴重な馬頭観音像と言えるだろう。


塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日。続いて武州入間郡南田嶌村と刻まれていた。

南田島氷川神社 川越市南田島280[地図]


前回見た地蔵塔と馬頭観音塔のあった道をさらに北へ進むと、交差点の先に氷川神社の入り口があった。周りは見渡す限りの青々とした水田。そんな田んぼの中の道の先に石鳥居と拝殿が見える。


拝殿の左奥、境内社の脇に石塔が並んでいた。右から2番目、唯一の像塔が庚申塔である。


庚申塔 元禄4(1691)駒型の石塔の正面に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。古仏ではあるがカビも少なく銘もはっきり残っていて美しい状態を保っていた。


ユニークなデザインの日天、月天の間に梵字「ウン」頭上に蛇を乗せた釣り目の青面金剛。左上の手は法輪ではなく羂索を持つ。像の右脇に「奉待庚申」その下に造立年月日。像の左脇に「現世安穏後生善處祈所 敬白」と刻まれている。見事に丸みを帯びた下半身のラインもまたユニークだ。


足の両脇に二鶏を半浮彫り。足元に邪鬼の姿はなく、磐座に直接立つ。練馬区などでよく見た元禄期の青面金剛庚申塔の多くがこの構図だった。磐座の下に三猿。その下に数名の名前が刻まれていた。

氷川神社西の田んぼのあぜ道 川越市南田島(周囲に家屋はなく住居表示は不明)


氷川神社と砂中学校との間も水田が広がっている。神社のちょうど裏あたり、田んぼと田んぼの間の細い道の路傍に板碑型の石塔が東向きに立っていた。なお、この庚申塔も「川越の石佛」には載っていない。


庚申塔 延宝4(1676)石塔の表面は風化が進み、白カビがこびりついていて銘が読みにくい。


何回か訪れて、ライトを当てたりして頑張って読んでみた。中央の銘、下のほうは「供養」で間違いないと思われるが、その上は「奉待庚申」あたりか?両脇に造立年月日。右に延宝?その下は「五」のように見える。干支があれば確定できるのだが・・・


下部に合掌する二匹の猿を浮き彫り。初期の庚申塔では三猿(見猿・言わ猿・聞か猿)以外にもこういった二猿、一猿を見かけることがある。素朴なその姿は暖かく味わい深い。ずっと眺めていると、二匹の猿が笑みを浮かべているように見えた。

氷川神社東 川越市南田島1585[地図]


氷川神社の入り口のすぐ近く、道路から少し入ったところに地蔵菩薩塔が立っていた。写真左奥に氷川神社の鳥居が見える。

地蔵菩薩立像 寛文13(1673)大きな舟形光背に錫杖・宝珠を手にした地蔵菩薩像を浮き彫り。一部白カビが目立つが欠損はない。


光背右脇に「奉成就地蔵菩薩」左脇に造立年月日。江戸時代初期の石塔は硬く良質な石材で、銘もはっきり残っていることが多いが、こちらの石塔は銘が薄くやや明快さに欠ける。


大型の舟形光背の上部が鋭く前にせり出し、その中央に品のいい地蔵像が、まるで丸彫りのように厚く浮き彫りされる。

南田島薬師堂 川越市南田島1550[地図]


旧富士見有料道路(国道254号線)の南田島交差点から西に200mほど進むと交差点北側の先に薬師堂があった。右側が南田島公民館。薬師堂の左脇には倉庫がたっている。


倉庫の前、ロープに囲まれて石塔が並んでいた。廃寺になったあとの墓地に公民館が隣接し、墓地の入り口に六地蔵や石仏が並ぶというのはよくあるが、ここでは墓地はなく、なぜか数基の石仏だけが残されていた。


左端 地蔵菩薩立像 宝永2(1705)光背の一部は欠け、風化が進み白カビが厚くこびりついている。右脇に戒名が刻まれていて墓石らしい。


その隣 地蔵菩薩立像 こちらは白カビはやや少ないが像は風化が著しく溶けかかっている。こちらも墓石のようだ。


続いて 庚申塔 享保16(1731)駒形の石塔の正面に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。やはり白カビが多い。


青面金剛の頭上には蛇がとぐろを巻いていた。像の右脇に「奉建立庚申供養所」左脇の紀年銘がちょうどカビが厚くなっていて読みにくい。


近づいてやっと享保十六 辛亥年と読める。資料では享保7年となっているがたぶん読み間違いだろう。その左下に南田嶋村と刻まれていた。


足の両脇に二鶏を半浮彫。足元には邪鬼がうずくまり、さらに正面向きの三猿が彫られている。三猿の下には十名ほどの名前が刻まれていた。


その隣に庚申塔 元禄10(1697)駒形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


三眼の青面金剛。頭上では蛇が頭を垂れている。像の右脇「奉勧請庚申尊像二世安樂之処」左脇に造立年月日。元禄十丁丑年と見えるが資料ではなぜか元禄七年となっていた。その下に南田嶋村。


足の両脇に二鶏を線刻。邪鬼は白カビに覆われている。三猿は両脇が内を向く構図。三猿の下にこちらも十名ほどの名前が刻まれていた。

薬王寺 川越市南田島1746[地図]


南田島公民館の西の道を北へ進み、川越線の踏切を越えて少し行くと、道路右手に薬王寺の入り口があった。入ってすぐ左手に六地蔵の小堂、その奥に阿弥陀堂、その先が墓地の入り口になっている。


境内に入ってすぐ右手、六地蔵に向かい合うように石仏が並んでいた。


右端 庚申塔。舟形光背に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。光背の一部は欠け、全体に風化が著しい。


青面金剛の顔は削り取られていてのっぺらぼう。よく見るとあごの部分が砕け落ちて穴があき、前掛けをめくってみると合掌した青面金剛の手は破損していて跡形もなかった。光背右脇「奉講?庚申待」左脇に造立年月日だが、ちょうど于時の後ろの部分が剥落、造立年を知ることはできない。


下部両脇にも顕實□、回□□、など、たぶん僧侶だろうか、三つの名前らしい文字が見え、左下に紀年銘の一部 □月吉祥日と刻まれていた。青面金剛の足元に邪鬼と二鶏の姿はなく、下部には三猿だけが彫られている。


2番目 地蔵菩薩坐像。石塔の三面に明和4年(1767)から天明7年(1787)の命日を持つ6つの戒名が刻まれていた。

3番目 地蔵菩薩坐像 明和5(1768)左ひざを立てた丸彫りの堂々たる半跏坐像。欠損もなく、彫りも細かく残っている。石塔の正面に大阿闍梨とあり、ご住職の墓石だろうか。下の台の右側面に十数人の名前が刻まれていて、多くの人たちに慕われた方のようだ。

4番目 地蔵菩薩立像 明和5(1768)石塔の正面「奉納大乗妙典六十六部供養塔」左側面に南田島村とあり、願主は個人名が刻まれていた。


左端 地蔵菩薩立像 弘化2(1845)石塔の正面に戒名が刻まれ墓石である。それにしてもここに並ぶ4体の丸彫りの地蔵像は、いずれも錫杖、宝珠がそろって健在、白カビはあるものの目立った損傷はない。「廃仏毀釈」の厳しい時期を、お寺に守られて難をのがれてきたのだろうか。


阿弥陀堂の先、墓地の入り口右手に大型の地蔵菩薩塔が立っている。


地蔵菩薩立像 寛文6(1666)舟形光背に堂々とした地蔵菩薩像を厚く浮き彫り。光背上部が大きく欠けていた。


円頂 白毫 福耳。静かな表情でたたずむお地蔵様。両脇に造立年月日が刻まれている。


お地蔵様の肩のあたりから足元まで、光背両脇には細かい字でたくさんの名前が刻まれていた。