笹目の石仏

平等寺 戸田市笹目6-5 [地図]

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新大宮バイパスの北大通り交差点の西、笹目小学校の東に平等寺がある。
山門の左側に二基の石塔が立っていた。

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奥に読誦普門品供養塔 天保5(1834)左側面に足立坂東十七番普門山平等寺。
台に講中として十数人の名前が刻まれていた。

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山門に近く四國移霊場標石 文政13(1830)正面に南無遍照金剛と彫られている。
左側面に四國八十八ヶ所豫州石鉄山移 第六十四番 笹目村 平等寺と刻まれ、
その脇に小さく圓光寺江二十丁とあった。

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山門の前からそのまま西に進むと墓地の入口。二基の笠付の庚申塔が並んでいる。

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右 庚申塔 文政13(1830)青面金剛立像 剣、ショケラ持ち。正面は凝った形に
彫りくぼめられ、その中に細かい彫りの像が浮彫りされている。足元の二鶏も
厚く彫られていて立派だ。三猿は変化のある構図で面白い。台の正面に大きく
講中と彫られ側面に名前が刻まれているが薄くて読み取れなかった。

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左 庚申塔 享保3(1718)青面金剛立像 合掌型六臂 邪鬼三猿の部分がかなり
厚く浮き彫りされていて立体的な構図になっている。右側面に足立郡笹目領
笹目邑講中四拾五人とあり、続いて奉造立庚申講諸願成就之と刻まれていた。

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左側面、びっしりと長い偈文?が刻まれてる。読み解くだけの力がなく
残念ながら意味はわからない。

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山門を入ってすぐ右側に石塔が集められていた。境内に立つ説明板によると
「境内には馬頭観音が6基」とあるがここに立っている6基のことだろうか?

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一番手前に立つこの石塔、どうしても馬頭観音には見えない。台も薄く文字は
見当たらないが、持物から見て六地蔵の中の一体だったのではないだろうか?
自信はないのだが・・・

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前の列、奥に二基の文字塔が並ぶ。左 馬頭観音塔 弘化4(1847)左側面に
下笹目村馬持中と刻まれていた。

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右 馬頭観音塔 文久2(1863)こちらの側面には個人の名前が刻まれている。

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後列には三基の像塔が並んでいた。左 馬頭観音立像 明治4(1871)忿怒相六臂
髪を逆立てキッと前を睨みつけている。側面には個人名が刻まれていた。

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中 馬頭観音立像 享保6(1721)慈悲相六臂 ここでは一際大きい。光背右脇に
奉造立馬頭観音為法界施主也と彫られ、左脇には願主 下笹目村宗真法師と
ある。足の下の面に44の村の名前が刻まれているが、田嶋村、西堀村など
西浦和付近の村から北は水波田村、嶋根村、二ッ宮村など、随分遠い村名が
見え、江戸時代の荒川左岸の村々のつながりが伺える。

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右 馬頭観音立像 元文5(1740)合掌型六臂 風化が進んでいてあとは詳細不明。

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参道の右側に六面石幢 貞享元年(1684)が立っていた。その下部に美女木村、
内谷村・沼影村など、七つの村の名前が刻まれている。

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塔身の六面にそれぞれ六地蔵菩薩立像が浮き彫りされていた。立派な笠のおかげで
六体とも美しい状態を保っていて、驚く程生き生きとした表情をしている。

慈眼寺 戸田市笹目5-12 [地図]


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門の奥に赤い柱の本堂が見える。門の外、左脇に石塔が立っていた。

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正面中央に南無遍照金剛、両脇に天下泰平、日月清明と彫られている。左側面に
天保3(1832)の銘があり、その下に願主名に続いて助力檀家中と刻まれていた。
右側面には四国八十八ヶ所豫州香苑寺移 第六十一番 慈眼寺と彫られている。
その脇には下笹目村、最勝寺へ三丁などの文字も見える。

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門を入った左には小堂に六地蔵が祀られ、その先に四基の石塔が立っている。

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六地蔵菩薩立像 一番左の台に文化9(1812)とあり、惣且中と刻まれていた。続く
台には文化4(1807)とあり、施主は個人名。さらに次の台には3名の戒名がある。
4番目には文化2一切精霊とあり、続いて享和3(1803)と寛政11(1799)2つの戒名
一番右には文政2(1819)文政5(1822)の2つの戒名が刻まれている。命日が1799年
から1822年。それ以降、村の世話人の呼びかけで建立されたものかもしれない。
六体の像は台ともども非常に美しい状態で、大きさや様子も揃っている。

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六地蔵の奥に並ぶ四基の石塔はいずれも白カビが目立ち、文字も読みにくい。

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一番左 地蔵菩薩立像 延享2(1745)台には個人の戒名が刻まれる。カビだらけで
表情もはっきりしないが、ユニークなお顔でなぜか人間臭い温かみを感じた。

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2番目 正面に奉納西國坂東秩父百番供養塔、脇に天下泰平国土安穏と彫られる。
左側面 願以此功徳普及於一切 我等與衆生皆共成佛道 先日南区四谷の観音堂の
庚申塔の台の正面に全く同じ文言を見たばかりだった。右側面に安永4(1775)の
銘が見える。下の台座の正面には大きく講中と彫られ、その側面と正面には
小さな字で美女木村、道満村、大野村とあり、多くの人の名前が刻まれていた。

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3番目 立派な笠を持った庚申塔 宝暦14(1764)左側面に足立郡大野村と彫られ、
台の正面に大きく講中とある。その下に多数の名前が刻まれていた。

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青面金剛立像 六臂 右手に剣、左手にショケラを下げている。下部の邪鬼が
青面金剛の足の下、後ろを振り向こうとしている。面白い表現だと思う。

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一番奥 金剛界大日如来坐像 明和3(1767)蓮台下の台の正面に大日講諸願成就と
彫られていた。さらにその下の台の正面に湯殿山講行者、下笹目村笹目、講親
十数名の名前が刻まれている。また、右側面にも四つの村の講中世話人とあり
その数合わせて85人ということになる。

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門を入って右側、ちょうど六地蔵の向かいの位置に宝筐印塔 文化3(1806)が
立っていた。乃至法界平等利益と刻まれている。圧倒的なボリュームだ。

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その隣、地蔵菩薩立像 享保17(1732)台の正面に笹目領下笹目村講中とあった。
また、こちらの台にも乃至法界平等利益、続けて慈眼寺 信慧と刻まれていた。

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境内の東側のブロック塀の前にも石塔が並んでいた。

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一番左 正面はカビで読みにくいが奉再建?石坂?のように読める。右側面に
文化4(1807)の銘が、左側面に願主として個人名が刻まれていた。

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その隣 正面に光明真言百九十万返供養と彫られている。脇には、弘法大師
為一千遠忌の文字が見える。右下に天保5(1834)左側面に施主、個人名。

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続いて文字塔の庚申塔 文政10(1827)正面中央に力強く庚申塔と彫られていた。
左側面に足立郡下笹目邑、台の中央に講中と刻まれている。

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次は凝った形の笠を持った庚申塔 宝暦9(1759)青面金剛立像 合掌型六臂
彫りは結構深く本格的だ。両側面下部に十数人の名前が刻まれていた。

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邪鬼のポーズがちょっと変わっている。両手を組んで頭を載せて、どこか
くつろいでいるように見える。三猿ものどかで、深刻な雰囲気はない。

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5番目 庚申塔 元禄9(1696)ここでは一番古い石仏ということになる。側面に
蓮の花が彫られているが、かなり白カビが目立つ。

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青面金剛立像 合掌型六臂 枠には奉供養庚申二世安楽所結衆中とあり、像の
下の部分に十数名の名前が刻まれていた。邪鬼三猿は白カビに覆われている。

谷口稲荷神社 笹目1-18-13

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入口の左側に石塔が立っているのが見える。

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庚申塔 宝暦5(1755)正面に大きく猿田彦大神。下部には三猿が彫られていた。

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左側面 年号に続き 講中拾七人。右側面 明治8(1875)再建立とあり、
願主として僧名が刻まれる。

真福寺 戸田市笹目1-12

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真福寺は谷口稲荷神社の別当寺院。さいたま市南区内谷の一乗院の末寺である。

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右側に祠があり脇に二基の石塔が立っていた。

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祠の中、右 馬頭観世音塔 文化10(1813)

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左 聖観音菩薩坐像 宝暦5(1755)右脇に願主敬白と刻む。

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外には聖観音菩薩立像 銘などは確認できないが個人のものと思われる。

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全体に白カビに覆われているが正面に奉納大乗妙典六十六部回国供養か?
側面には八十八ヶ所、百不動などの文字が見える。年代は不明。

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参道の左側に六地蔵の小堂と石塔が並ぶ。六地蔵は年代不明だった。

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六地蔵の右、宝筐印塔 宝永3(1706)これも個人のもののようだ。

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六地蔵の左には馬頭観音塔が三基並ぶ。右 馬頭観音立像 宝暦7(1757)光背左に
足立郡早瀬村。足元に施主栗原氏と刻まれていた。

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中 光背一面にカビがまわり年代等不明。施主は個人名のようだ。

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左 馬頭観音立像 享保7(1722)左側面 下笹目村講中と刻まれている。
右側面には寒念佛供養となっていた。