西区指扇

荒澤不動尊 西区指扇577[地図]


水判土の慈眼寺のあたりから佐知川の台になった地域を指扇駅方面にまっすぐに道が通っている。この道を北西に進み佐知川から指扇に入ったあたりで道は左右に分かれ、ここから左右いずれも下り坂になる。この分岐点の左手前に荒澤不動尊があった。


お堂の左の生い茂る立木の中、雨除けの下に石塔が立っている。


庚申塔 正徳元年(1711)四角い台の上の唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


おだやかな雰囲気の青面金剛。磐座に立ち足元に邪鬼はいない。持物は矛・法輪・弓・矢。


塔の下部に大きな二鶏。下の台の正面に三猿が彫られていた。


塔の左側面 武刕足立郡指扇子之内五味貝戸村。下部に施主12名の名前。


右側面に造立年月日。こちらは下部に13名の名前が刻まれている。合わせて施主25名だろうか。


不動尊堂の裏に役目を終えたのだろうか、二匹の狛犬が並んでいた。


その後ろに馬頭観音塔 昭和9(1934)が倒れていた。10年前に見たときには狛犬の隣に立っていたのだが・・・


不動尊の前の交差点、右の道を下ってゆくと県道2号線に出て、さらに北上するとまっすぐ西大宮駅方面へ、左の道も県道2号線の赤羽根東あたりへ出る。交差点の角のところに石塔が立っていた。


百ヶ所観音霊場供養塔 寛政4(1792)角柱型の石塔の正面に「百ヶ所供養塔」両脇に造立年月日。上部に聖観音菩薩坐像が浮き彫りされている。


塔の右側面 右 あきは道。中釘にある秋葉神社への道標。下部に数名の名前が刻まれているが風化のためにはっきりとは読み取れない。


左側面 左 くぁんのんミち。こちらは宝来にある福寿庵百観音への道標らしい。やはり下部に数名の名前が刻まれている。

荒澤不動尊北路傍 西区指扇548[地図]


荒澤不動尊の前の交差点から左の道を北へ進むと、300mほど先の道路右側に小堂が立っていた。


地蔵菩薩立像 寛延3(1750)丸彫りのお地蔵様は宝珠を欠き、顔がつぶれている。


角柱型の石塔の正面に「念佛講供養塔」念仏供養塔である。


塔の右側面に造立年月日。左側面に武刕足立郡 五味貝戸村中と刻まれていた。

 

指扇道下公園墓地 西区指扇291[地図]


県道2号線の三橋交番前交差点から指扇駅方面へ向かい、二つ目の押しボタン信号交差点を左折、300mほど進むと道路左側に指扇道下公園がある。広い敷地内には神社や自治会館があり、その南東の一角に墓地があった。


入口から入ってすぐ左、地蔵菩薩立像 宝永7(1710)四角い台の上、分厚い敷茄子が目立つ。


おちょぼ口ですました表情のお地蔵様。欠損はなく彫りもきれいに残っていた。


敷茄子に銘が刻まれている。中央に「念佛供養」両脇に造立年月日。右のほうに施主 五味貝戸村。


左のほうに男女合六十八人 敬白と刻まれていた。五味貝戸村の多くの人たちが力を合わせて造立した念佛供養塔。300年あまりの長い間、村の人たちの祈りを受け続けてきたのだろう。


その隣の小堂の中 六地蔵菩薩塔 明治24(1891)六体は風化もなくきれいな状態でよく揃っている。


小堂の隅には首のもげた丸彫りの地蔵菩薩像がいくつか残されていた。以前こちらに祀られていた六地蔵だろうか。


入口の右手奥に三基の石塔が並んでいる。


手前 順礼供養塔 天保6(1835)二段の四角い台の上 角柱型の石塔の正面上部に月山 湯殿山 羽黒山、その下に「秩父 西國 坂東 百箇所供養塔」百ヶ所供養塔とあるが、出羽三山も含まれるので順礼供養塔とした。


塔の右側面に造立年月日。左側面に武州足立郡差扇領 五味貝戸村。差扇=指扇この表記もときどき見かける。


台の右側面 當所とあり四名の名前、下郷村、畔吉村から各一名の名前が刻まれている。


左側面にも當所とあり数人の名前が刻まれていた。


その隣 雨除けの下に念仏供養塔 天明8(1788)四角い蓮台の上の角柱型の石塔の正面に「念佛供養塔」両脇に造立年月日。塔の上に丸彫りの如意輪観音坐像。全体に白カビはほとんどなく、如意輪観音の二臂像は美しい状態を保っている。


塔の左側面に當村 女講中。


右側面に世話人とあり、二名の名前が刻まれていた。


一番奥 一石六地蔵塔。銘が見当たらず造立年など詳細はわからないが、江戸時代初期、遅くとも享保以前のものと思われる。


六体のお地蔵様はどれも顔が削れていた。像の他の部分や持物は比較的きれいに残っていて、この破損は風化のためではなく、おそらく人為的なものではないだろうか。

 

大宮地蔵庵 西区指扇1045[地図]


県道2号線を五味貝戸から西へ進むと、やがて道路左側にNTTの大きな鉄塔が見えてくる。その手前は連続して二基の時差式信号機が設置された変則的な交差点。その西のほうの信号交差点を左折して細い道に入るとすぐ先に小さな墓地があった。


階段を上った先、左側に丸彫りの地蔵菩薩塔が立ち、その横に六地蔵が並んでいる。


念佛供養塔 明和2(1765)四角い台に反花付き台を重ねた上に角柱型の石塔。厚い敷茄子と蓮台に立つ丸彫りの地蔵菩薩像。本格的な構成で総高2mを超す。お地蔵様は宝珠を欠き、首から肩にかけて補修の跡があった。


角柱型の石塔の正面に「念佛供養尊」両脇に造立年月日。塔の右側面 右下に下郷村中とあり、左上に信女、童女など七つの戒名。


左側面手前に五つの戒名。奥に五味貝戸村中と刻まれている。


隣に六地蔵塔。風化が進み一部剝落、ところどころに銘は残っているが紀年銘は確認できなかった。10年前には右から3番目の光背に寛政3年と読めたのだが、それも命日の可能性が高く、造立年は不明。六体のお地蔵様はいずれも顔がつぶされている。

琵琶島稲荷神社 西区指扇2318[地図]


NTTの鉄塔の近くの交差点から200mほど進み、左の細い道に入った先に琵琶島東公園がある。その西にある稲荷神社の入口に石塔が立っていた。


庚申塔 享保11(1726)小さな鳥居の奥、唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


頭上にとぐろを巻いた蛇を乗せた三眼の青面金剛。腰のあたりに足を折り曲げたショケラがすがりつく。


足の両脇に二鶏。足元の邪鬼は腰と頭を踏まれながらも上目遣いにすごむ。その下に正面向きの三猿が彫られていた。


塔の左側面下部に十二名の名前。塔の右側面中央に造立年月日。その右脇に武刕足立郡指扇子下郷組。下部右端に妙光寺とあり、十名の名前が刻まれている。指扇子の「子」は荒澤不動尊の庚申塔の銘の中にもあった。はじめ見たときは「字」のウ冠を省いたか、指扇領の領の代わりに子を使うことがあるのかと思ったが、どうも違うようだ。調べてみると指扇村には赤羽根、大木戸、台、下郷、増永、大西、五味貝戸の7つの組があったらしい。この組名を表す時、指扇(村の中の)下郷組=指扇子下郷組というふうに使われるのだろうか?

神宮寺跡墓地 西区指扇2802[地図]


JR川越線の指扇駅の東、県道2号線の北にある赤羽根氷川神社。その北西の住宅街のなか、民家に囲まれた畑地が旧神宮寺の跡地だという。だいたいの場所の情報を得て付近を探し回ったのだがなかなか見つからず、近くで畑仕事をしていた人に聞いてやっと探し当てた。現地は石仏までのしっかりしたアプローチがなく、上の写真の畑のあぜ道をたどってゆくしかない。


畑の奥の北西の隅、雑草が生い茂る中、卵塔などといっしょに大きな丸彫りの地蔵菩薩塔が立っていた。


無食供養塔 寛延元年)(1748)反花付き台に角柱型の石塔、重厚な敷茄子・蓮台の上に堂々と佇む丸彫りの地蔵菩薩像。総高2mは優に超す。


白カビはあるものの欠損も補修跡もなく美しい状態を保っていた。資料によると現在も郷中の人たちによって念仏供養が続けられているという。


石塔の正面を彫りくぼめた中「無食供養塔」両脇に造立年月日。西遊馬で見た二基に続き西区で見る三基目の無食供養塔である。塔の左側面に神宮寺 講中二十五人と刻まれていた。

 

熊野神社前 西区指扇1819-13[地図]


県道2号線、NTTの鉄塔近くの交差点から北へ向かう。すぐ先のコープの脇の細い道に入って道なりに進んでゆくと妙光寺の入口にでる。手前を右折して少し行くと道路左手奥に熊野神社があり、鳥居の左手前に石塔が立っていた。後ろに丸いタンクが写っているが、このあたり一帯は大きな酒造会社の敷地になっていて、妙光寺の前を右折した道は、その広い敷地の東を通って北へ抜けてゆく。


庚申塔 宝永2(1705)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。ごく一部に白カビが見られるが、彫りはきれいに残っていて全体に美しい。


目を吊り上げた忿怒相の青面金剛。顔の下半分が削れていた。像の右脇に造立年月日。左脇に武刕足立郡指扇子下泣村。10年前、指扇の中に該当する村はみつからないとしたが、酒井さんの「石仏ノート」を見ると、この部分は「下郷村」とされていてなるほどと納得した。「泣」と見えたのが本当は「江」で、上の点と縦棒は傷!下江→しもごう→下郷で、下郷村が正解らしい。あとからTATSUさんのブログをみたらやはり下江=下郷となっていた。気が付かなかったのはどうやら私だけだったようだ。


足元に邪鬼と二鶏は見当たらず正面向きに座る三猿だけが彫られていた。その下の部分に10名の名前が刻まれている。

旧華蔵寺墓地 西区指扇3481西[地図]


酒造会社の東を通り北へ向かい、突き当りを左折、道なりに西へ200mほど進むと道路左側に大きな墓地があった。道から少し入った先の入口からのぞくと、墓地は東西に広がっていて、入口近くに小さな堂宇が立っている。


お堂の右手前に二基の石塔が南向きに並んでいた。


右 庚申塔 享保15(1730)板碑型石塔の正面を彫りくぼめた中「奉待庚申供養塚」両脇に造立年月日。このあたり薄く白カビがあり、全体に靄がかかったような状態で銘の細かい字は読みにくい。


「・・・塚」の下、中央に施主 花蔵寺とあり、その両脇にそれぞれ四名、その下に十名、さらにその下に八名の名前が刻まれていて施主26名になる。右縁下部には増永村 大西村 大木戸村と刻まれていた。


塔の最下部にしっかりとした三猿。両脇が内を向いて座るが、左の言は猿は頭を反らして顔だけを正面に向けている。


左 一字一石供養塔 安永9(1780)大きな四角い台の上に四角い蓮台を重ね、その上に二臂の如意輪観音坐像。この石塔は経文の一字を一石に記して土中に埋めた供養塔で、特に江戸時代に多く建てられたということだ。
 

観音像は四角い蓮台に直接乗っているのではなく、別に台を設けその上に座っていた。よく見るとこの台は観音像と同じ石から彫りだされていて、像と台とがワンセットで蓮台に乗る形、これはあまり見たことがない構成で珍しいと思う。光背右脇「法華一字一石供養塔」左脇に造立年月日。法華経の字数は全部で7万近くなるという。それだけの数の石がこの石塔の下にうめられているのだろうか?足元の台の部分の正面に、願主 華蔵寺住 権律師 善根敬白と刻まれていた。


一番下の大きな四角い台の正面右上に施主とあり、大西村、増永村、大木戸村、男女 貳拾一人、下郷村、宗兵衛、さらに念佛講中、弟子左中(?)と刻まれていた


墓地の奥に進むと、左手のブロック塀の前に舟形光背型の六地蔵菩薩塔 安永2(1773)が北向きに並んでいる。サイズは六体よく訴追っているが、右から2番目の光背だけが形が違っていた。後から補われたものかと思ったが、銘を見て見ると内容も文字の感じも他の五基と変わらない。


光背右脇に造立年月日。左脇に大木戸村 増永村 大西村。三つの村の人たちが一緒に造立したものらしい。


さらに墓地の奥に進むと、左手に大きな舟形光背の地蔵菩薩塔が立っていた。写真後ろ左側に酒造会社のタンクが写っている。


無食供養塔 延享元年(1744)赤羽根神宮寺跡に続いてこれが西区で四基目の無食供養塔。舟形光背にバランスの良い地蔵菩薩立像を浮き彫り。一部に白カビが多く見られるが欠損はない。光背右脇に「無食供養」その下に大西村 増永村。左脇に造立年月日が刻まれていた。

 

旧華蔵寺墓地北西路傍 西区指扇3529南[地図]


旧華蔵寺墓地の北の道を西に進むと、墓地の敷地の切れたあたりに小堂が立っていた。


小堂の中 庚申塔 文化12(1815)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


頭上に蛇を乗せた青面金剛。右上手に矛ではなく斧を持つ。馬頭観音などで時々見かけたような気がするが、青面金剛ではかなり珍しいのではないだろうか。


ショケラは腰にすがりつく。足元の邪鬼は不敵な笑みを浮かべて正面をにらみつけていた。


下の台の正面に三猿。風化のために溶けだしている。ここだけ色が変わっているのはセメントで補修したものだろうか?構図が非常にユニークで、右端の見猿は後ろ向きに頭を垂れて座り、まるで鬼ごっこのオニのよう。「もういーかい?」あとの二猿は遠目には様子が分かりにくい。


左の聞か猿は右手で左耳をふさぎ左手で体を支え、右足を立てて左足は伸ばし外を向いて座っていた。くつろいで横になった女性のようなポーズ。


中央の言わ猿。上が丸まった背中でその左に折り曲げた右足、下の丸い部分が頭部で両手を口に当てている。このようなポーズの猿はいままで見たことがない。自由奔放な三猿、もしかしたら岩槻系の石工さんの仕事だろうか?


塔の右側面に造立年月日。その下に大西 世話人とあり三名の名前。


左側面にも大木戸、増永からそれぞれ三名に名前が刻まれていた。三つの村が力を合わせてこの庚申塔を造立したのだろう。

旧華蔵寺墓地西住宅 西区指扇3329南[地図]


上の庚申塔から西へ250mほど、住宅の塀の間に小堂が西向きに立っていた。


庚申塔。隅丸角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に「庚申塔」側面は見ることができず造立年など詳細は不明。


塔の下部、小堂の横木に隠れるように小さな三猿が彫られている。

旧華蔵寺墓地北三差路 西区指扇3506東[地図]


旧華蔵寺墓地に行くときに使った酒造会社の東を通る道。T字路を左折してすぐ先を斜め右に入って北へ100mほど進むと三差路に石塔が立っていた。写真左の細い道が酒造会社から北上してきた道。右の道は東に進み大塚古墳から南下する道と合流して県道2号線へ、ここから写真上のほうに進むと川越線の踏切を越えて西大宮に入り、中郷薬師堂の入口の前にでる。


大乗妙典六十六部供養塔 正徳4(1714)この供養塔はなぜか酒井さんの「郷土の石佛」に記載がなく、今回旧華蔵寺墓地あたりから中郷薬師堂へ行こうとしてたまたま通りかかってこの石塔に気が付いた。


四角い台の上の角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、梵字「バク」の下に「奉納大乗妙典六十六部供養成就攸」上部両脇に天下泰平 國土安穏。なかほど両脇に四國西國 秩父坂東。右下に武刕指扇領増永村。左下に願主 増永□實□□□□。こちらが行者だろうか?塔の最下部右下の縁の部分に施主 増永□右衛門と刻まれている。


塔の右側面に造立年月日。その下に銘があるが、ここのところ晴れの日が続き逆光で写真が撮りにくい。


指扇の多くの村の名前が並ぶ。今まで見てきた中で判断してみるが読み間違いもあるかもしれない。右から別所村、五味貝戸村、赤羽村、大西村、下江村、臺村、大木戸村。


塔の左側面下部。右から土屋村、遊馬村、同本村、下宝来村、上宝来村、佐知川村、阿弥陀寺村、法願寺村。左右両面合わせて15村。



塔の下の四角い台の各面にも多くの人たちの名前が刻まれていた。二段に分かれているがよく見ると、上が姓、下が名のようだ。こちらの写真は右側面で、ざっと二十数名になる。


正面と左側面にも同じように二十数名の名前が刻まれていた。


台の裏面には右端あたりに四名の名前。台のほうは四面合わせて約70名ほどになる。台の上の塔の両側面には15の村名が刻まれていたが、裏面には右端に大木戸村とあり五名の名前、続いて大西村とあり十一名の名前、さらに□□村とあり、三名の名前。結論としてはこの供養塔は増永村の願主のもと、近隣の多くの村から総勢100名近い人たちが協力して造立したということになる。