天嶽寺入口庚申塚 越谷市越ケ谷2549


旧日光街道から元荒川左岸沿いの道を東へ道なりに500mほど進むと、道路左側に庚申塚があった。左側が天嶽寺入口、右側が久伊豆神社の参道入り口になる。


全体の様子がわかるように正面から写真を撮った。階段の左脇に二基、登り切った正面に六基、合わせて八基の庚申塔が集められている。


階段脇、右庚申塔 延宝元年(1673)駒型の石塔の正面中央上部に「庚申」それ以外の銘は彫りが浅くなってしまって読みにくい。左脇に造立年月日。右脇は特に薄くて難しいが「慶安」の文字が見える。命日だろうか。下部に6名の名前が刻まれていた。


左 庚申塔 慶応4(1868)上部は欠けていて、塔の表面はかなり崩落が見られる。江戸時代最後期の石塔は材質が悪いものが多くこういった状態もよく見かける。正面は「庚申」だろう。右側面に造立年月日だが不完全なようだ。資料によると慶安4年となっているので今回はそれを採用した。願主は個人名。


塚上の六基のうち右端の庚申塔。上部が破損。塔全体が風化のため摩耗していて銘が確認できず造立年ははっきりしない。駒型?の石塔の正面上部は日月か?青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


足元はたぶん邪鬼だろう。二鶏、三猿は確認できなかった。


2番目 庚申塔。塔の上部が鋭角にスパッと切られている。六臂だが前の手がなく、三組の腕は平面的。上から鉾と宝輪、弓矢、下の右手に持つものは何だろう?下の左手は羂索か?邪鬼、二鶏、三猿の姿もなく、元禄あたりのような気がするのだが・・・塔の下部には9名の名前が刻まれていた。


3番目 庚申塔 元禄15(1702)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。これもやはり風化が目立つ。


足元の塊は邪鬼と思われるがどうだろう。その下には三猿を彫る。二鶏は見当たらない。


塔の左側面に同行 男女弐拾七人。右側面上部に造立年月日。下部に越ケ谷本町、その脇の文字は読めなかった。


4番目 庚申塔 元禄8(1695)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・数珠?持ち六臂。


第3手左手に持つのは数珠のように見える。狛犬のような顔をした邪鬼は背中に甲羅のように岩を背負い、その岩の上に青面金剛が立つ。この構図も珍しい。邪鬼の下に大きな三猿が彫られていた。


5番目 庚申塔 享保4(1719)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。六基のうちでは
これが一番きれいでカビも少ない。


光背右脇「奉納庚申講諸願」左脇に造立年月日。その下に同行十四人、成就。青面金剛の足の両脇に比較的大きな二鶏。足元の邪鬼は頭を右にして寝そべる。その下に正面向きの三猿。三猿の下の部分、右に越ケ谷本町とあり続けて14名の名前、よく見るといずれも最後が・・・母、・・・内儀となっていてどうやら女講中のようだ。


左端 庚申塔。駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・?持ち六臂。光背、台ともに銘が見当たらず詳細は不明。


こちらも第3手左手の持ち物がショケラではなく羂索のように見えるが今一つはっきりしない。青面金剛は岩の上に立ち、その岩の下から邪鬼が顔をのぞかせる。両脇に小さな二鶏を線刻。下部に丸いフォルムの三猿が彫られていた。

 

天嶽寺 越谷市越ケ谷2549


天嶽寺入口右側に六基の石塔が一列に並んでいた。後ろに前回紹介した庚申塚が写っている。


右端 馬頭観音塔。紀年銘がなく造立年不明。駒型の石塔の正面楕円形に彫りくぼめた中に大きく梵字「キャ」その下に味のある字体で「馬頭觀世音」両側面と裏面、台に銘は見当たらない。


2番目 六十六部供養塔 宝暦8(1758)隅丸角柱型の石塔の正面中央「奉供養六十六部霊地結縁」右脇に「天下泰平日月清明」左脇に「風雨以時災厲不起」二段の台の上の台の正面に かハしも 二こう半 川かみ かすかへ と刻まれていた。「二こう半」=「二郷半」で江戸時代まで吉川から今の三郷の地域を二郷半領といったらしい。


塔の右側面は白カビが多い。中央に願文。その右脇に造立年月日。左脇には願主という文字が見える。台の右側面に はしハ ゑと みやハ しゃうない と刻まれている。


塔の左側面には 衆生諸願行一切能満足 天嶽精舎雲蓮社智阿上人代と刻まれていた。


3番目 六十六部供養塔 明和5(1768)正面 梵字「カ」の下に「六十六部供養塔」と刻まれた石塔の上に丸彫りの地蔵菩薩坐像が乗る。


塔の右側面に造立年月日。左側面には武州崎玉郡越箇谷住法子と刻まれていた。


4番目 聖観音菩薩立像。光背に浮き彫りされた像の両脇に二つの戒名と延享年間の命日が刻まれ、こちらは個人の墓石のようだ。


5番目 二十三夜供養塔 元文3(1738)舟形光背の中央上部に梵字「サク」その下に合掌する勢至菩薩立像を浮き彫り。右脇に「廿三夜講中敬白」左脇に造立年月日。


台の正面には13人の名前が刻まれていた。越谷で多く見られた十九夜供養塔が女人講中なのに対して、こちら二十三夜供養塔は13人すべて男性の名前である。


左端 猿田彦大神塔 文化4(1807)角柱型の石塔の正面「猿田彦大神」その下に南こしかや、北のしま いわつきと刻まれている。


塔の右側面上部に造立年月日。続いて荻嶋村願主とあり、個人名を刻む。その下に 東 志めきり まくり かすかへ。〆切橋は元荒川の上流、南荻島と砂原を結ぶ橋で、願主も荻嶋村とあり、地名から考えてもこの石塔は元は砂原付近にあったものではないだろうか。塔の左側面下部には講中世話人とあり4名の名前が刻まれていた。


入口の左側 霊場標石 文政4(1821)二段の台の上、背の高い角柱型の石塔の正面中央「圓光東漸慧成弘覺大師霊場」圓光大師は浄土宗の開祖である法然上人の大師号。東山天皇に「圓光」の大師号を頂いてから、平成23年まで50年ごとに二文字の大師号を贈られ、平成29年現在「圓光東漸慧成弘覺慈教明照和順法爾大師」と8つの大師号を持つという。両脇に願文。上の台の正面に「金澤氏」個人の奉納だろうか?


塔の右側面「奉納諸國神社佛閣妙典并遍照院江敷石供養塔」左側面に至 登山 天嶽寺。裏面に造立年月日が刻まれている。


入口から広い道を奥へ歩いてゆくと、右側の高い木々の前に石仏が並んでいた。


三基の地蔵菩薩像。右の小ぶりな地蔵菩薩像は個人の墓石だった。


中央大きな基壇の上、丸彫りの地蔵菩薩立像 享保7(1722)蓮台の下、塔部正面中央「奉造立地蔵大菩薩」すぐ脇に天嶽寺十七世 仁譽上人代。右端に造立年月日。続いて専譽一念法師。左に□譽順西法師。左端に施主 越ケ谷本町 □女中八日講中と刻まれている。調べてみると「八日講」は念仏講の一種で、「八日講」と刻まれた石塔はいろいろなところで見られるようだ。


塔の右側面、上段に10、下段に6個の戒名。塔の下、反花の付いた台の右側面にも多くの名前が刻まれているが、こちらは細かすぎて判読できない。


塔の左側面、こちらは「おとく」「おまん」など多くの女性の名前が刻まれている。下の台の左側面にも右側面と同じように細かい文字が見えるがやはり読み取ることはできなかった。いずれにしてもこの石地蔵の建立にあたって多くの人々が協力したことは間違いない。


左 地蔵菩薩立像 承応3(1654)大きな舟形光背、梵字「カ」の下に丸いお顔の地蔵菩薩立像を浮き彫り。錫杖と宝珠を持つ。


江戸時代初期の石仏は石の材質が良いためだろうか、像も銘も比較的きれいな状態を保つことが多い。光背右脇「奉造立□庚申供養現當所願成就」地蔵菩薩を主尊とする「地蔵庚申塔」ということになる。すぐ下に「干時承應三甲午年」またすぐ「乃至法界」左脇は越ケ谷本町之内□上十二人。すぐ下に十月十五日。またすぐ「平等利益」「施主敬白」左脇の十月十五日は右脇の承應三甲午年に続き、その下の平等利益は右の乃至法界に続くものだろうが、その位置がずれていてダイレクトにはつながらない。なにか特別な意図でもあるのだろうか?


下の蓮台の3枚の花弁にそれぞれ4名、合わせて12名の名前が刻まれていた。

 


前回見た参道奥の右脇の三基の地蔵菩薩立像の向かい側、参道奥の左手に瓦屋根の山門があり、門左手前には寺標が立っていた。山門からすっと先に朱塗りの楼門が見える。


楼門の左手前に宝篋印塔や地蔵塔など多くの石塔が集まっている。


大きな基壇の上に屋根型の笠を持つ宝篋印塔 文化元年(1804)台の正面に「三界萬霊」左正面 本願主 越谷本町とあり個人名。さらに施主として江戸北八丁堀岡崎町とあり3名の名前が刻まれていた。


その奥 徳本上人名号塔 文政11(1828)角柱型の石塔の正面中央 独特の書体で「南無阿弥陀佛」その下に徳本とあり花押を刻む。さらにその下に3名の戒名と俗名。下の台の正面には念佛講中と刻まれている。


塔の左側面に造立年月日。さらに天嶽寺二十三主 教譽覺門上人代。右側面に 終南山悟真光明善導浄業大師霊場。善導大師とは中国浄土教の僧で、「浄土五祖」の第三祖とされるらしい。


楼門の左側手前に六体の地蔵菩薩立像が並んでいた。


右端 地蔵菩薩立像 寛政3(1791)丸彫りだが錫杖、宝珠とも健在。台の正面は線香立てが邪魔していて全体は見えない。右端に造立年月日。その横に再建願主は個人名。続いて「奉納大乗妙典六十六部」左に願主 鏡清と刻まれていた。


2番目 地蔵菩薩立像 明暦元年(1655)立派な舟形光背に大きな錫杖を持った地蔵菩薩立像を浮き彫り。蓮台の下の「三界萬霊」と刻まれた台は享保17年のもので本来の台とは別物のようだ。


光背右脇「歸命無量壽覺奉石塔造立右志趣者□庚申供養二世願成就所」こちらも「地蔵庚申塔」である。その右脇に信心之衆武州、左脇に越ケ谷本町之内。両手のあたりの脇に乃至法界・平等利益。下部両脇に造立年月日が刻まれている。


足元の蓮台、上の花弁二枚に施主敬白、下の三枚に9名の名前。その下にもう一つ蓮台があるのはあまり見ない形で、おそらくこの下の蓮台とその下の台が享保17年のものなのだろう。本来の台が残っていたらひょっとすると三猿を見ることができたかもしれない。


3番目 地蔵菩薩立像 延享4(1747)丸彫りの延命地蔵。錫杖と宝珠は前面がはげ落ちている。台の正面中央「奉造立地蔵大士」両脇に造立年月日。左側面 願主 善廣法師とあり奥に至登山 慈譽代と刻まれていた。


4番目も丸彫りの地蔵菩薩立像 宝永6(1709)蓮台前面の花弁に造立年月日。本来の台がなく詳細は不明。


5番目 地蔵菩薩立像 享和元年(1801)舟形の光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背には白カビが多い。


台の正面に二つの戒名があり、右側面に施主 個人名が刻まれていて個人のものかと思ったのだが、左側面を見ると造立年月日に続いて女念佛講中と刻まれていた。


左端 地蔵菩薩立像 文政6(1823)舟形の光背に真ん丸なお顔をした地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背右脇に造立年月日。左脇に一□三□地蔵尊?と見えるがよくわからない。台に銘が見当たらずこちらも詳細はわからない。


さらにその奥に回国供養塔 天保15(1844)背の高い角柱型の石塔の正面「奉納大乗妙典六十六部日本廻國」両脇に天下泰平 國土安穏 日月清明 二世安樂。


塔の左側面に大きな字で越後国蒲原郡と江戸浅草山谷住人の二人の名前。左側面に造立年月日。裏面には「三界萬霊」と刻まれている。


楼門を入ると正面に本堂があるが、その途中、右側に鐘楼があって、階段両脇に二基の石塔が立っていた。


右 六字名号塔 享保18(1733)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面、鏡文字で「南無阿彌陀佛」周りに小さく大僧正 増上寺 祐天。


塔の左側面は無銘。右側面 當山十八主 □譽上人代。裏面に造立年月日。その下に施主とあり、江戸本町、越谷仲町の二人の名前。さらに三丁目 幻覺法師と刻まれている。


左 六字名号塔 寛政2(1790)角柱型の石塔の正面「南無阿彌陀佛」


塔の右側面中央「布石供養塔」両脇に造立年月日。その下に三体の地蔵菩薩立像を浮き彫り。


塔の左側面に「三界萬霊一切精霊」その下に三体の地蔵菩薩立像。左右合わせて六地蔵菩薩になる。

 

久伊豆神社 越谷市越ケ谷2549


天嶽寺の入口にある庚申塚のすぐ東に久伊豆神社の一の鳥居が立っている。ここから拝殿前まで石畳の長い参道が続く。その中ほど、入口から5分ほど歩いたあたり、二の鳥居の手前に石橋がかかっていてその左奥に大きな石塔が立っていた。


石橋供養塔 文久2(1862)自然石の表面 上部に「奉納」その下に「石橋」左横に崩し字で「いせ太々講」


裏面上部に造立年月日。その下に多くの人の名前が刻まれているが彫りが薄く読み取りにくかった。


二の鳥居から先も石畳の参道が延々と続く。参道左の並木の向こうは「緑の森公園」市民の憩いの場になっている。



拝殿近く三の鳥居の手前に一対の灯篭が立っている。左の灯篭の手前と右の灯篭の向こうに石塔があった。


参道左脇 灯篭の支柱のすぐ横に庚申塔 寛政12(1800)


駒型の石塔の正面 日月雲の下に大きく「庚申」下部に三猿を彫る。


烏帽子をかぶりハッピを着た三猿。右の見猿は右手を振り上げ、左の言わ猿は桃果の付いた枝を肩に担いでいる。


塔の右側面に造立年月日。横から見ると正面の「庚申」の彫りの深さがよくわかる。


左側面には地名。はしの方 江戸、みやの方 さしま、川かみ かすかべ、川志も にがうはん。同じような道標銘が天嶽寺入口の宝暦8年の「六十六部供養塔」にもあった。両方とも元荒川の近くに立っていたのだろうか。川上、川下、粕壁、二郷半=三郷地区はいいとして、橋の方、宮の方はなにを指すのだろうか?資料によると さしま=猿島とのことだが、これもどこを指すのかよくわからなかった。


参道右、松の木の前に敷石供養塔 寛政9(1797)角柱型の石塔の正面「奉供養敷石建立社頭繁栄處」両脇に天下和順 日月清明。


下部中央に「氏子中」右に世話人四町野村とあり個人名、左に願主同村とあり惠心と刻まれている。


塔の右側面 上部に大きく是より野田道。下部には本町二番と横書きでその下に6名の名前。さらに三番中町の下に5名の名前があり、また新町中組と続くがその下部分は剥落。最後は中町袋とあり2名の名前が刻まれていた。


左側面上部に造立年月日。下部には四町野村、神明下村、谷中村、瓦曽根村、花田村とあり、合わせて十数名の名前が刻まれている。

 

観音堂 越谷市越ケ谷5-3


県道49号線、北越谷のほうから元荒川を越えて400mほど、歩道橋のある信号交差点を左折して細い道を東へ進むと左手に観音堂がある。入口右側には自然石に「正觀世音菩薩」と刻まれた昭和54年銘がある石塔が立っていた。


参道左側 ブロック塀の前、竹垣に囲まれた一角に石塔が並んでいる。


左に六地蔵菩薩立像。像、台ともに銘は見当たらない。明治時代の「廃仏毀釈」の為だろうか、いずれも首のあたりに断裂跡が残り、あとから補われた頭部は不ぞろいでそのありようが痛ましい。


その隣 庚申塔 享保6(1721)角柱型の石塔の正面を真四角に彫りくぼめた中、日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。剣の部分と顔は摩耗がひどく不鮮明。


足の両脇に薄く二鶏。足元の邪鬼は右腕をついてやや前向きの姿勢。その下、四角く区切られた空間に三猿を彫る。塔の最下部には9名の名前が刻まれていた。


続いて地蔵菩薩立像 正徳年間造立。舟形の光背に円形の頭光背を負った地蔵菩薩像を浮き彫り。塔の右側面に造立年月日。左側面に「庚申講中」


下の台は半ば土に埋もれている。右端に正徳と紀年銘を刻み、中央に同行、その両脇に数人の名前が刻まれていた。


その隣、不明塔 文政元年(1818)前面は風化が進み摩耗、剥落のために像容ははっきりしないが、全体の形、衣服の感じなどから見て観音菩薩像か?左脇に個人名が見えるが紀年銘が吉日となっていて、個人の供養塔、墓石ではなさそうだ。


続いて馬頭観音塔 明和8(1771)駒型の石塔の正面 梵字「カン」の下「馬頭觀音」両脇に造立年月日。


参道を進むと水屋があり、その向こうに二基の石塔が並んでいた。


左 馬頭観音塔 文化10(1813)石塔の正面 梵字「キャ」の下「馬頭觀世音」台の正面に「講中」


塔の右側面に造立年月日。その下に大さ加ミ道(=大相模道)左側面には のだ せうない 道(=野田 庄内 道)と刻まれている。


右 徳本名号塔 文政5(1822)角柱型の石塔の正面に独特な書体で「南無阿弥陀佛」両脇に造立年月日。下部に徳本とあり花押を彫る。その両脇に念佛講中と刻まれていた。


本堂の右に二つの境内社がある。左の社の横、ブロック塀の前に石塔が並んでいた。


左 弁財天塔 嘉永4(1851)駒型の石塔の正面を同じく駒型に彫りくぼめた中に「辨財天」塔の右側面に造立年月日。


不明塔を挟んで 右 庚申塔 嘉永7(1854)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。塔の右側面に造立年月日。左側面「天下泰平 國土安全」


青面金剛の顔のあたりは激しく剥落。足を折り曲げ合掌するショケラがかわいい。


足元には犬のような邪鬼。片足を跳ね上げてうずくまる姿はユニーク。二鶏、三猿は見当たらなかった。