谷中町・新川町の石仏

 

西福院 越谷市谷中町3-86付近


国道4号線の谷中町二丁目交差点から西に入り、道なりに北西に300mほど進むと、道路左側に西福院の入り口がある。奥に見えているのは観音堂。その入口付近、両脇に石塔が立っていた。


左側 庚申塔 享保3(1718)駒型の石塔の正面、日月雲 青面金剛立像 合掌型八臂。一見六臂に見えたが腰のあたりにもう一組の腕があった。


腰のあたりの腕、右手に小さなショケラ、左手は羂索を持つ。合掌しながらショケラも持ち、しかも八臂。非常に珍しい構図になっている。足下にはかなり大きな邪鬼が突っ伏す。その右脇「奉庚申□供養二世安樂処」左脇に造立年月日。さらに下部には三猿を彫り、その脇に6名の名前が刻まれていた。


右側 普門品供養塔 天保11(1840)角柱型の石塔の正面 梵字「サ」の下に「普門品供養」両脇に天下泰平 國土安穏。台の正面には11名の名前が刻まれている。


塔の右側面に造立年月日。左側面は白カビが多く読みにくいが中央に「新四國八拾八か所第廿二番」右下に谷中村、左下に西福院と刻まれていた。


その後ろに巡礼供養塔 昭和4(1929)角柱型の石塔の正面上部に弘法大師、続いて「四國御霊場順拝記念碑」右下に個人名、左下に七十才。個人の造塔らしい。塔の右側面に昭和四年四月十六日出発、左側面に五月二十一日帰郷當所と刻まれている。


参道左側には大小二基の文字塔が並ぶ。


左 馬頭観音塔 昭和6(1931)大きな三角形の自然石の正面に「馬頭觀卋音」裏面に寄附芳名とあり20名ほどの名前。最後に造立年月日が刻まれていた。


右 馬頭観音塔 文政元年(1818)駒型の石塔の正面 梵字「カン」の下「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。さらに谷中村 講中とあり、その下に6名の名前が刻まれている。

観音堂の左側が墓地になる。その入り口付近に六地蔵の堂が立っていた。


六地蔵菩薩立像。主尊となる中央の丸彫りの地蔵像の台に享保6(1721)年の紀年銘が見えるが、六地蔵のほうには銘は見当たらなかった。



墓地の入り口手前左側 板碑型の文字庚申塔 承応3(1654)越谷で最も古い庚申塔の一つと考えられる。


中央「奉為造立石塔一宇庚供養二世安樂也」上部両脇に造立年月日。下部には20を超す法名、俗名が刻まれていた。


観音堂の左手前に石灯籠型の石塔が立っている。


念仏供養塔 元禄8(1695)竿部正面 阿弥陀三尊種子の下「念佛講供養」両脇に造立年月日。左側面 梵字「サ」の下「観音堂再建供養」両脇に宝暦6(1756)年の紀年銘。


さらに右側面には「延寶六年より宝暦六年迄七拾九年成」とある。石灯籠自体は念仏供養のために元禄8年に造立されたもので、延宝6年に始まった観音堂の再建が宝暦6年に完成し、その落成を記念して両側面の銘を後刻したということだろうか。

 

下組稲荷神社 越谷市谷中町2-315向


国道4号線の谷中二丁目交差点から西に歩いてすぐ、細い道を左に入ってしばらく行くと右側に稲荷神社がある。鳥居の右手前に庚申塔が立っていた。



庚申塔 文化10(1813)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。「江戸後期裾跳ねあがり型」のあの細かな彫りの青面金剛。顔ははっきりしない。


足元に太った狗のような邪鬼。そのすぐ下、左の見猿が後ろを向き、中央の言わ猿は斜めに体をひねり、右の聞か猿は仲間に背を向けてうつむき加減に座る。あまり見たことのないユニークな三猿が面白い。下の台の正面には12人の名前が刻まれていた。


塔の右側面に造立年月日。その脇に天下泰平國土安穏。左側面には谷中村講中と刻まれている。

三ツ谷稲荷神社 越谷市谷中町1-147


七左町二丁目交差点で国道4号線と交差する大きな道路沿い、交差点の西すぐ近く北側に稲荷神社がある。朱塗りの鳥居の左手前に庚申塔が立っていた。


庚申塔 寛政2(1790)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。この時期のものとしては珍しいことに風化した様子が無く白カビも見られない。


左手につるされたショケラ、あおむけに踏みつけられた邪鬼、ともに無表情でかえって不気味だ。足の両脇に比較的はっきりとした二鶏。下部に三猿だが、これも変化があって面白い。


塔の右側面に造立年月日。左側面には講中とあり、願主は個人名が刻まれていた。

 

腰巻稲荷神社 越谷市新川町2-55隣


西新井、北後谷にまたがって県民健康福祉村というとても広い公園がある。その南東に建つ老人福祉センターの敷地内、西のはずれに腰巻稲荷神社があった。腰巻というのは江戸時代に七左衛門村から分村したもので、この辺りは七左衛門村→腰巻村→新川町ということになる。鳥居の先、参道の左脇に石塔が立っていた。


庚申塔 弘化5(1848)駒型の石塔の正面 日月雲の下に「青面金剛」その両脇に造立年月日。下の台の正面には願主1名、世話人2名の名前が刻まれている。


塔の左側面は無銘。右側面には みぎ 大相模ふどうそん こしかや ミちと刻まれていた。

薬師堂 越谷市新川町191隣


県道324号線が武蔵野線のガードをくぐる、そのすぐ北のT字路交差点から北東に進み宮本町方面に向かう道は新川町と七左町の境界線になっている。T字路交差点から400mほど先の左側、交差点の角地に墓地があった。そのすぐ手前、南西の細い道から入り、上の写真が入口。正面は薬師堂。右手前が墓地。ブロック塀の前に石塔が立っていた。


巡礼供養塔 明治19(1886)塔の正面上部を彫りくぼめた中に如意輪観音坐像と弘法大師坐像を浮き彫り。その下に「百番 四國 供養塔」百番は坂東、秩父、西国の百か所の観音霊場。四國は弘法大師ゆかりの八十八か所霊場。188か所の霊場巡礼を果たした記念の造塔だろう。左脇に願主 良恵尼。


塔の右側面に明治9年の紀年銘。左側面、写真では見えにくいが左脇に明治拾九年七月十五日とある。明治9年に巡礼を初めて明治19年7月15日まで、10年の歳月をかけて188か所の霊場の巡礼を達成したということだろうか。右脇に智山良恵尼上座。続いて能登國箱井郡三ツ谷村産と刻まれていた。


墓地に入ってすぐ、お堂に向き合うように舟形光背型の四基の石仏が並んでいる。いずれも白カビが多く文字も読みにくい。


右から 地蔵菩薩立像 正徳4(1714)梵字「カ」の下に地蔵菩薩立像を浮き彫り。顔は風化のためか人為的なものかわからないが破損していてはっきりしない。光背右脇「奉造立地蔵菩薩像二世安樂攸」左脇に造立年月日。下部両脇に施主 敬白。足元にひらがなで多くの文字が見え、女性の名前かと思われるが読み取ることは難しい。


右から2番目 阿弥陀如来立像 延享5(1748)光背上部に梵字「キリーク」こちらも白カビが多く顔もはっきりしない。光背右脇「奉造立无量壽佛為上求菩提下化衆生也」左脇に造立年月日。その下に四町野村 法師 西雲と刻まれていた。


3番目 阿弥陀如来立像 寛文4(1664)風化が進んでいるのは残念だが寛文期の石仏らしくバランスの良い姿。光背上部に阿弥陀三尊種子。光背右脇「南無阿弥陀佛」施主十五人。左脇に造立年月日が刻まれている。その隣の合掌型の地蔵菩薩像は個人の墓石だった。

新川沿い畑隅 越谷市新川町2-323西


県道324号線、綾瀬川に架かる佐藤橋に向かう分岐の交差点の少し南、道路に沿って流れる新川の東の畑の隅に小堂が立っていた。


小堂の中には二基の石塔。右 馬頭観音塔 慶応元年(1865)駒型の石塔の正面「馬頭觀世音」と二行同じように刻まれている。その右脇に造立年月日。塔の左側面には腰巻村 施主とあり個人名が刻まれていた。


左 馬頭観音塔 文化6(1809)上部が鋭い駒型の石塔の正面を彫りくぼめた中に「馬頭觀世音菩薩」両脇に造立年月日。塔の左側面に願主 個人名が刻まれている。

新川町一丁目自治会館 越谷市新川町1-287


県道324号線、釣上方面から武蔵野線の線路をくぐって50mほど、道路右側に稲荷神社の入り口がある。参道の右側には自治会館があり、その脇に石塔が立っていた。


雨除けの下 庚申塔 元禄13(1700)駒形の石塔の正面 梵字「アーンク」の下 日月雲 青面金剛立像 剣・羂索持ち六臂。古い割に状態が良く文字もはっきりしている。


足元の邪鬼は獅子舞の獅子のような面相で上半身を乗り出す形、いままで見たことがない。下部に彫られた大きめな三猿はリアルで生々しい印象。二鶏は見当たらない。光背右脇に一部欠損があるが、「奉造立□□□二世安樂祈處」左脇に造立年月日。邪鬼と三猿の間の空間に庚申講同行十二人。両脇に施主欽言。


塔の左側面には念佛講同行十二人と刻まれていた。

 

万蔵院墓地 越谷市新川町1-910


県道324号線、武蔵野線のすぐ南、道路東側に万蔵院の墓地がある。道を挟んで向かい側には前回見た新川町一丁目自治会館。墓地の入り口は二か所あって、上の写真は北のほうの入り口から入って南のほうを見たところ。道路側のブロック塀に沿って多くの石仏が並んでいた。


入り口近く、電信柱の陰に題目塔。紀年銘が見当たらない。角柱型の石塔の正面にひげ文字で「南無妙法蓮華経」上部は破損。坐像が載っていたのだろうか。


右側面は道標になっている。川上 いわつき、川下そうか、向 こしかや 道。


その先はいくつか無縁仏が並び、南の入り口の脇に二基の石塔。左の如意輪観音は個人の墓石だった。

一石六地蔵塔 明治13(1880)大きな台の上に載った石祠の正面 舟形の光背の形に彫りくぼめた中に六体の地蔵菩薩立像を浮き彫り。一部にひび割れが見られちょっと心配な状況だ。


右側面はかなりの部分が剥落。左側面も崩落寸前という感じの中にかろうじて造立年月日が確認できる。


南の入口から入ってすぐ右、トタンの小堂の周りにも多くの石塔が並んでいた。裏の石塔はほとんどが無縁仏のようだ。


小堂の脇 普門品供養塔 嘉永3(1850)自然石の正面 梵字「キャ」の下に「普門品供養」右脇に造立年月日。下の台の正面には「當講」ときざまれている。


小堂の中には三体の舟形光背型の石仏。残念ながらいずれも銘が見当たらず詳細は不明。手前は不動三尊像で見られる矜羯羅童子と制吒迦童子だろうが、中央はなぜか地蔵菩薩立像になっている。


小堂の奥、二基の石塔が並んでいた。


左 地蔵菩薩立像 正徳3(1713)舟形の光背の右脇「奉造立地蔵菩薩二世安樂所」左脇に造立年月日。


左下に施主とあり、足元の部分にひらがなでいくつか名前らしきものが見える。女性の講中だろうか。


右 阿弥陀如来立像。舟形の光背の形から寛文~元禄あたりのもののような印象を受けるが・・・


ちょっと小首をかしげているかのような阿弥陀如来。光背の右脇に二行、左脇に二行文字が刻まれているのだが、風化のために彫りがはっきりせず紀年銘などは確認できなかった。


墓地の一番南に五輪塔形式の石塔が立っていた。角柱部分の四面とも上部に梵字が彫られている


新四国八十八か所標石 文化13(1816)向かって右側のこちらが正面。中央に「新四國八拾八所 第二拾番 満蔵院」どの地図で見てもここは「万蔵院」となっているが、本来は「満蔵院」なのかもしれない。


塔の残りの三面、左側面に願文と造立年月日。裏面に法印 心城とあり、その下に歌が刻まれ、右側面には「奉造 観世音堂 虚空蔵堂 為二世安樂」「満蔵院」にはこの二つのお堂があったのだろうか。