上戸・鯨井・の石仏

常楽寺 川越市上戸194[地図]


小ケ谷から川越橋を渡って上戸に入る。橋を渡りきると道は左へ急カーブ、さらにまたすぐ右へ曲がると、道路右手に常楽寺の入口があった。


山門手前、右側には六地蔵の小堂が、その脇に植え込みの陰に丸彫りの地蔵菩薩像が立っていた。


小堂の中 六地蔵菩薩立像 安永9(1780)丸彫りの六体は損傷もなく蓮台、石塔ともよくそろっている。


右端の石塔の右側面に造立年月日。左端の石塔の右側面に施主 小ケ谷村 小谷野氏と刻まれていた。


六地蔵の小堂の右奥、緑に囲まれて丸彫りのお地蔵さまと角柱型の石塔が並ぶ。


地蔵菩薩立像 寛保元年(1741)錫杖の先が欠けているが、尊顔はさわやか。蓮台も敷茄子も重厚で凝った彫り物が施されていた。


塔の正面を彫りくぼめた中、中央に「念佛供養」両脇に造立年月日。右側面には河越山常楽寺。左側面は確認できない。


塔の下、四角い台の正面にも銘が見えるが風化のために読み取りが難しい。途中に小ケ谷□ □□村 施主とあり、4名の名前が刻まれていた。


右の石塔は正面が剥落のために銘がほとんど失われているが、下部にかすかに「世音」とあり、たぶん馬頭觀世音塔だろう。塔の右側面は隙間が狭く未確認。左側面に願主3名の名前が刻まれている。


入口の左側、地蔵菩薩立像 安永6(1777)塔の左側面に紀年銘と戒名が刻まれていて、こちらは個人の墓石らしい。


山門をくぐると参道両も二対の大きな石灯篭が立っていた。手前は左右とも宝暦11(1761)、奥は左が正徳2(1712)右は正徳4(1714)の紀年銘が刻まれている。


正徳2年の石灯篭を見てみよう。丸みを帯びた太い竿部に「文昭院殿 尊前」調べてみると、文昭院は江戸幕府第6代将軍徳川家宣のことで、その命日は正徳2年10月14日。この石灯籠は芝増上寺にある文昭院の霊廟の前に立っていたものらしい。同じように増上寺にあったと思われる石灯籠を練馬区の長命寺の境内でも見かけた。


本堂の左手前の小堂の中に丸彫りの地蔵菩薩塔 明和4(1767)が立っていた。当初から小堂内にあたものか、像は欠損なく美しい。


石塔の正面、梵字「カ」の下に「三界萬霊」右脇に有縁無縁、左脇に爲子供也。塔の右側面に造立年月日。左側面に下小ケ谷邑とあり個人名が刻まれていた。

入間川土手道下の塚上 川越市上戸20[地図]


川越橋を渡り切ってそのまま土手下の道を100mほど南へ進むと、道路右側、小高くなった塚の上に小堂が立っている。


小堂の中、地蔵菩薩立像 寛永2(1625)川越市内最古の地蔵像だという。いまだにその信仰は続いているのだろう、いつ行っても飲料やお花などが供えられていた。


舟形の光背は上部が欠落、縁もギザギザになっているが、かろうじて銘は残っている。光背両脇に造立年月日。左下に願主一名。像自体も溶けていて、錫杖・宝珠ともに欠落、お地蔵様の尊顔はけずられたものか、のっぺらぼうだった。

 

雁見橋西路傍 川越市鯨井1894北[地図]


県道39号線、上寺山から雁見橋で入間川を渡った先の信号交差点で道は二つに分かれる。ここを左折してすぐ、右にカーブしてしばらく西に進むと、道路左側、交差点の角の電信柱の脇に石塔が立っていた。


庚申塔 寛政9(1795)角柱型の石塔の正面、大きな字で「庚申塔」塔の右側面に造立年月日。下の四角い台の正面に右 坂戸 左 於こせ 道と道標が刻まれている。


塔の左側面には武刕高麗郡 願主 鯨井村中、世話人 講中と刻まれていた。

上戸交差点北路傍 川越市鯨井1476西[地図]


庚申塔の前の道を西に進む。約1kmほど先の上戸交差点のすぐ手前のT字路交差点を右折、突き当りの交差点を左折すると、ガードレールに守られて歩道の一角に石塔が立っていた。


馬頭観音塔 天明5(1785)大きな四角い台の上、舟形光背に三面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。風化が進み薄く白カビに覆われている。


頭上の馬頭はこぶのように見える。顔は削れてはっきりしないが忿怒相か?手には矛、法輪、斧、羂索を持っていた。


塔の右側面「奉造立馬頭觀世音」その下に施主とあり、僧俗4名の名前が刻まれている。


左側面に造立年月日。その下に施主とあり、鯨井村中 講中廿一人。さらに世話人とあり、四名の名前が刻まれていた。

東方薬師如来堂 川越市鯨井1842[地図]


雁見橋を渡って県道39号線をそのまま西に進む。小畔川の八幡橋の400mほど手前、道路右側に東方薬師如来堂があって、その道路沿いのヒイラギの古木の前に石塔が立っていた。同じ敷地内、奥に八坂神社と鯨井自治会館が並ぶ。


庚申塔 延宝2(1674)江戸時代初期にしか見られない板碑型の三猿庚申塔。塔の中ほどに断裂跡があり、風化のためか縁もところどころ欠けている。


銘は薄くなっていてかなり読み取りにくく、ライトをあててやっと一部確認できた。中央「南無青面金・・」右脇に延寶貮とうっすら見える。左脇に二月吉祥日?


下部に正面向きの三猿が並んでいた。風化のために顔もはっきりしないが、やはり三猿は存在感がある。旧高麗郡に入ってからこのような「三猿庚申塔」はほとんど見たことがないような気がするがどうだったろう?いずれ機会があったら川越の三猿庚申塔の地理的分布についても調べてみたいと思う。