新越谷・南越谷・大間野町の石仏

 

稲荷神社 越谷市新越谷1-38


新越谷駅西口から300mほど西、武蔵野線の線路の100mほど南に稲荷神社がある。周りは新たに整備されたばかりで、広い境内には大きな木も少なくどことなく殺風景だ。西南の入り口から参道を進むと石鳥居の手前、参道左脇に二基の石塔が並んでいた。


新しいコンクリートの大きな台に並ぶのは二基の庚申塔。平成18年に国道4号線日光街道のほうから移動されたものだという。後ろの緑のフェンスの向こうは廃寺となった真福寺の墓地で、そちらにもいくつか古い石仏を見ることができる。


左 庚申塔 天明5(1785)駒型の石塔の正面 日月雲 梵字「ウン」の下「青面金剛」両脇に造立年月日。下部にひらがな二文字の名前が二段に刻まれているが、この辺りは風化のためにはっきりと読み取ることはできなかった。


右 庚申塔 宝暦6(1756)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。例によって青面金剛の顔はつぶされている。足元には平たい邪鬼。本来の台を欠くためか二鶏、三猿は見当たらなかった。


塔の両側面に造立年月日。下部に施主とあり、それぞれ5名の名前。合わせて施主は10名となる。


二基の庚申塔の後ろの墓地の一角に三基の石仏が並んでいた。


左 庚申塔 享保11(1726)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


真ん丸な顔の邪鬼。頭の上に青面金剛を乗せているが悲壮感はない。横にうっすらと腕が見える。その下、白カビで見にくいが薄い彫りの二鶏。下の台の正面には三猿が彫られていた。


塔の左側面に造立年月日。続いて武州七左村下谷講中外有施入。


右側面には「奉造立供養青面金剛形像現世安穏後生善処祈所」と刻まれている。


中央 阿弥陀如来立像 寛文10(1670)大きな舟形光背の上部に阿弥陀三尊種子。その下に阿弥陀如来立像を浮き彫り。


光背右脇に「念佛供養石塔二世成就所」左脇に造立年月日。像は肉感的な彫り。阿弥陀如来の静かな表情が印象的だ。


右 地蔵菩薩立像 寛文10(1670)美しい反りのある舟形の光背。右脇に「奉待庚申之供養二世成就所」左脇に造立年月日。腰のあたり、両脇に施主敬白。下部両脇に11名の名前。銘から考えて地蔵庚申塔ということになる。


お地蔵様の足元には正面向きのかわいい三猿が彫られていた。    

北野天満宮 越谷市新越谷1-53


前回見た稲荷神社の入口の道路を挟んだ向かい、少しだけ武蔵野線方向に進むと道路左側に北野天満宮があった。鳥居の左脇、フェンスの前にポツンと石塔が立っている。


庚申塔 文化11(1814)隅丸角柱型の石塔の正面をやはり上隅を丸くした形に彫りくぼめて、その中に「青面金剛」下部右に講頭、続いて11名の名前が刻まれていた。


塔の左側面は無銘。右側面には造立年月日が刻まれている。

赤山街道武蔵野線ガード北の十字路 越谷市新越谷1-14


国道4号線の七左町交差点から斜めに越谷駅方面に向かう赤山街道。武蔵野線のガードの200mほど北の信号交差点の南西角に石地蔵が祀られていた。


雨除けの下、地蔵菩薩立像 享保6(1721)三ツ谷橋の近くに立つこのお地蔵様を地元では昔から「三ツ谷地蔵」と呼んだらしい。舟形光背上部に梵字「カ」その下に円形の頭光を負った地蔵菩薩立像を浮き彫り。塔の表面は風化が進み顔などもはっきりしない。


下の台の正面 梵字「ア」の下に「法師覺心本不生位」と僧侶の位号を刻む。


塔の両側面、梵字の下に願文。左側面には続いて造立年月日。さらに願主 覺心と刻まれていた。


地蔵像の光背の裏側に五つの梵字。これらは金剛界五仏を表すものだという。

富士中学校東路傍 越谷市南越谷3-23


「三ツ谷地蔵」の立つ交差点から東に向かい、富士中学校の横を過ぎた先で広い道路に突き当たる。道路脇を流れる堀を渡ると路傍に石塔が立っていた。


馬頭観音塔。駒型の石塔の上部を舟形光背の形に彫りくぼめた中に馬頭観音立像を浮き彫り。その下中央に「觀世音」右脇に越谷領、左脇に三ツ新田村講中。紀年銘が無く造立年は不明。


馬頭観音像は小さいものだが頭上の馬頭も観音様の目鼻立ちもはっきりと彫られ、また合掌した手もふっくらとした馬口印を結んでいた。

正光院墓地 越谷市大間野町4-61


国道4号線の大間野交差点から北西に入ると県道324号線で釣上方面に向かうが、この大間野交差点からもう一本、真西に入るやや狭い道があり、交差点から100mほど先の道路右側に「大間野霊園」という看板が立っている。ここから路地を奥に向かって歩いてゆくと、その先には墓地があった。「正光院」の墓地だという。


墓地の入り口左側、新しく整備された台の上に多くの石塔が整然と並んでいた。台の正面に「開基 櫻井家之墓」昭和49年9月建之と刻まれている。正光院はこの櫻井家のご先祖が開いたものらしい。とりわけ七基の舟形光背型の石仏が並ぶ姿は壮観だ。基本的にいずれも個人の墓石ではあるが、このロケーションで祀られているので、今回はゆっくり拝見させていただいた。


左端 阿弥陀如来立像 寛文12(1672)七基の石仏は寛文12(1672)から寛延元年(1748)まで入り口から古い順に並んでいる。いずれの石仏も光背右脇に戒名・法名、左脇に命日が刻まれていた。阿弥陀如来の顔立ちは個性的で生前の姿をしのばせるものだろうか、妙に人間臭い。この石塔に刻まれているのは釋了存と浄土真宗で使われる法名。


2番目 釈迦如来立像 貞享5(1688)両手の印の様子から釈迦如来と判断できる。ゆったりと優し気な佇まい。戒名に正光院がつき、このお寺の開祖の墓だという。


3番目 阿弥陀如来立像 宝永5(1708)目の吊り上がった阿弥陀如来。「大徳」は徳の高い高僧の法名につけられる。


4番目阿弥陀如来立像 宝永6(1709)ここから1700年代に入るが、ここまでのどの石塔も年代のわりにきれいな状態を保っている。


5番目 二臂の如意輪観音坐像 正徳元年(1711)他の石仏に比べると風化が目立ち、特に下半身に白カビが多い。


6番目 阿弥陀如来立像 延享2(1745)光背上部に一部欠損がみられる。若干吊り上がった目をしていて、これも個性的な顔立ち。


7番目 阿弥陀如来立像 寛延元年(1748)ふくよかで肉感的な表現。それにしても江戸時代の初期から何代にもわたってこれだけの像塔のお墓を立ててきたのだから、「櫻井家」はこの地域の相当有力な家だったのだろう。


墓地入口の右側の奥、櫻井家の諸仏と向き合うように地蔵菩薩立像が立っている。


地蔵菩薩立像 寛文10(1670)梵字「カ」の下に錫杖と宝珠を手にした地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背右脇「奉造立地蔵菩薩念佛講結衆二世成就攸 敬白」左脇には造立年月日が刻まれていた。

 

光福寺 越谷市大間野町2-190


国道4号線の大間野交差点から東に進むと東武線の蒲生駅方面に向かうことになる。交差点のすぐ東、道路の北側に光福寺の入り口があった。立派な山門の向こうに本堂が見える。


山門をくぐって少し行くと参道左側に小堂が立っていた。前列左端に丸彫りの地蔵像、続いては光背型の六地蔵、後列は丸彫りでやや大型の六地蔵。いずれも紀年銘がなく詳細は不明。その後ろ、六地蔵の陰になり薄暗い中に多くの石塔が並んでいる。


小堂の中に入り込むのもはばかれるし、後列の六地蔵がやや大型のために、その間から覗くように写真を撮るしかなかった。左から 庚申塔 延宝8(1680)宝珠を持った大きな唐破風笠付きの角柱型。塔の側面に大きな蓮の花を彫る。


塔の正面 梵字「ウン」の下「「奉待庚申講結二世安樂所」両脇に造立年月日。下部両脇に六つの僧名と七つの俗名。資料によると右側面に漢字で、左側面にはひらがなで、それぞれたくさんの名前が刻まれてているということだが確認はできなかった。


続いて 庚申塔 宝永6(1709)一部が欠けているが、上部を屋根のような形にした石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。風化が著しく進み像の表面は丸くなっている。青面金剛の顔の真ん中がかなり深くえぐられていて痛々しい。像の右脇「奉庚申二世安全者也」左脇に造立年月日。三猿の右脇に右講結集、左脇に拾八人欽言と刻まれていた。


さらに続いて庚申塔 宝永4(1707)駒形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・?持ち六臂。今は空手だが左手にはショケラを持っていたのだろうか?


足元の邪鬼はユニーク。甲羅を背負った亀のように見える。その下の三猿は素朴でかわいい。右脇「奉待庚申供養二世安樂所」左脇に造立年月日。邪鬼の顔の下あたりに施主欽言とあり左右に およし、おはつ、おつひ、おいわ と四人の女性の名前が刻まれている。


隣の地蔵像の後ろには二基の石塔が重なるように立っていた。後ろの石塔は上部しか見えていないが、資料によると大乗妙典供養塔 正徳5(1715)角柱型の石塔の正面 梵字「バク」の下「奉讀誦大乗妙典一千部成就所」上部両脇に造立年月日。右下 武蔵國大間野村、左下には護拝者とあり 一名の名前が刻まれているらしい。


前の石塔は六十六部供養塔 正徳元年(1711)駒型の石塔の正面 梵字「ア」の下「奉造立供養葬頭河婆奉納妙典六十六部成就」葬頭河は三途の川のことで葬頭河婆は地獄の奪衣婆らしい。奪衣婆は民間信仰では疫病除けや咳止めに効き目があるとされ、以前、川口市西立野の西福寺、石神の真乗院などで奪衣婆像が祀られているのを見たことがあるが、この石塔の「大乗妙典六十六部奉納」とどう関係してくるのかはよくわからない。塔の右脇に武州崎玉郡越ケ谷領大間野村、左脇に造立年月日。下部は見えていないが資料によると廻國沙門 圓西欽白と刻まれているという。


続いて小型の庚申塔 宝暦13(1763)駒形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。頭の後ろに円形の頭光背。ひざまずく邪鬼の下に自由な雰囲気の三猿が見える。両側面は視認できなかったが、右側面「奉供養庚申青面金剛」左側面に造立年月日が刻まれているという。


その隣の奥に地蔵菩薩立像 寛文10(1670)舟形光背、梵字「カ」の下に錫杖と宝珠を持った神々しい地蔵菩薩立像を浮き彫り。右脇に「奉造立地蔵菩薩念佛講結衆二世成就攸」その下に念佛結衆二名、願主二名の名前。左脇に造立年月日。その下には多くの名前が刻まれているらしいがこれも確認はできない。


続いて光明真言供養塔 寛保元年(1741)上部隅を丸くした角柱型の石塔。台の正面に8名の名前が見える。両側面にも名前が刻まれているようだ。


塔の正面を彫りくぼめた中、上部に光明真言曼荼羅。その下に「奉読誦光明真言一千六百万遍所願成就所」右脇に造立年月日。左脇には大間野邑 中村四郎 左衛門 武吉と刻まれていた。


その隣 普門品供養塔 天保6(1835)角柱型の石塔の正面「奉讀誦普門品供養塔」右脇に天下泰平 五穀成就、左脇に 村内安全 諸人快樂。塔の裏面に造立年月日。その下に當寺現住 澄傳代と刻まれている。


右端 聖観音菩薩立像 寛文11(1671)唐破風笠付きの角柱型の石塔。前の地蔵像の陰になり正面から全体を見ることはできなかった。


小堂の右側の側板の隙間から少しづつ写真を撮って確認してゆく。上部を舟形に彫りくぼめて聖観音菩薩立像を浮き彫り。顔は風化のためにはっきりしないが、その立ち姿には気品がある。



その下部には「奉造立観世音菩薩百堂結衆二世安樂處也」両脇に造立年月日。写真は撮れなかったが、塔の右側面に「従是西江 ぢおんじみち 三里」と刻まれていた。以前「慈恩寺道」を調べたときに驚いたのだが、江戸川区の北小岩に正徳3(1713)の慈恩寺道の道標が刻まれた地蔵菩薩像塔が残されており、江戸時代初期のこの時期にも広い地域から慈恩寺巡礼が行われていたことがわかる。

 

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Last updated  2018.03.04 20:32:35