岩槻区南下新井

城南小学校東路傍 岩槻区南下新井1245北


国道16号線の仲町交差点から県道324号線を南に進み、途中の信号交差点を左に入る。城南小学校の北を通るこの道はその先で道なりに大きく右にカーブしてゆくが、そのカーブの角のところの畑の隅に石塔が立っていた。


地蔵菩薩立像 明治37(1904)顔のあたりは破損していて様子はあまりはっきりしない。


塔の右側面は無銘。左側面に造立年月日。施主は個人名だった。

老人ホーム東路傍 岩槻区南下新井1572付近


石地蔵の立っていたカーブから道なりに南に進むと、300mほど先の右手のフェンスのところに小堂が立っていた。その奥には老人ホームがある。


小堂の中 大日如来立像 元禄2(1689)舟形の光背に智拳印を結ぶ金剛界大日如来立像を浮き彫り。光背右脇上部に梵字「バン」その下両脇に渡って造立年月日。さらに右下に武州埼玉郡下新井村、左下に願主とあり個人名が刻まれている。

庚申塚 岩槻区南下新井999南


さらに300mほど南、道路左手に庚申塚があった。小堂の中に四基の石塔が並んでいる。


右から 庚申塔 享保19(1734)二段の台の上に駒形の庚申塔。彫りは深く鮮明だ。


塔の正面を彫り窪め、その上に日月雲、中に青面金剛立像 合掌型六臂。頭頂部が平らな独特の髪型、ドクロの首輪、上下に直角に曲がった後ろの二組の腕など、川口で多く見た「川口型」の類型だが、後上左手に大きなショケラを持ち「岩槻型」の特徴も併せ持っている。


足下の邪鬼は頭が左で、その下の三猿は両脇の二猿が内を向き足を投げ出す構図。邪鬼と三猿の間にしっかりと二鶏が彫られている。三猿の下、上の台の正面中央に講中とあり、その下にひらがなで十数個の名前が刻まれていた。


塔の右側面に造立年月日。左側面には「奉造立庚申供養塔」その右下に下新井村と刻まれている。


その隣 庚申塔 明和7(1770)粗削りな仕上げの角柱型庚申塔。


正面中央に「庚申塔」右脇に造立年月日。左脇には武州埼玉郡下新井村と刻まれていた。


台の正面、正確には読み取れないが、数人の名前が刻まれているようだ。


続いて 庚申塔 元禄7(1694)高さ1mあまりの比較的大きな角柱型の像塔。


石質のためだろうか、表面が丸くあいまいな印象を受ける。中央を凝った形に彫り窪め、上に日月雲、青面金剛立像 合掌型六臂。後上左手にショケラを持つ。足下の邪鬼は正面向きのM字型。三猿も正面向きで平凡。二鶏は見当たらない。


塔の右側面 中央に「奉供養庚申像諸願成就所」下の三文字の配置が面白い。右脇、かなり小さい字で読みにくいが武州埼玉郡岩筑領下新井村、左脇には造立年月日が刻まれていた。


左側面 上部に「奉祝」その下は二行に渡って「現世安穏・後生善所・地久天長・天下太平」


左端 普門品供養塔 寛政6(1794)正面上部に聖観音菩薩坐像を浮き彫り。中央「奉讀誦普門品五萬巻供養塔」両脇に渡って造立年月日。右下に岩槻領、左下に下新井村。


塔の両側面にはそれぞれ十数人の名前が刻まれていた。
福厳寺 岩槻区南下新井1682


庚申塚のすぐ南、道路右側の細い道を入って西に向かって歩いてゆくと福厳寺の入り口に出る。山門への道を行くと右手前の木の下に石塔が立っていた。


大乗妙典供養塔 宝暦3(1753)塔の正面を彫り窪めた中に「奉大乗妙典壹千部供養」下部に蓮の花を彫る。


塔の右側面 武州埼玉郡下新井村、左側面に造立年月日。その下に施主は個人名が刻まれている。


山門を入ると本堂の左に墓地があるが、その入り口付近に六地蔵の小堂が立っていた。


丸彫りの六地蔵菩薩立像 享保5(1720)大きな欠損もなく美しい状態を保っている。


六体の地蔵像の乗った台の三カ所に銘。右に造立年月日、中央「為有縁無縁三界萬霊等」、左に下新井村中と刻まれていた。


六地蔵の小堂の左奥に地蔵菩薩立像 寛文5(1665)大きな舟形の光背に立派な地蔵菩薩立像を浮き彫り。錫杖と宝珠を手にしたお地蔵さまは厳しい表情で佇んでいる。


寛文期の石仏はほぼ例外なく美しい。光背上部に「奉請」右脇に「庚申念佛」その下に造立年月日。左脇には「廿三夜百堂」その下に下新井村男女諸佛供養、下部両脇に施主敬白。さて、銘から考えると庚申塔、念佛供養塔、二十三夜月待供養塔、百堂供養塔、それぞれの意味を持つことになるのだろう。諸佛供養ともあり、村の多くの人々の想いが込められたものと思われる。

久伊豆神社南六差路 岩槻区南下新井971の南


庚申塚から南に進み、福厳寺入り口を過ぎると、道は緩やかに左に曲がり県道48号線方面に向かう。このカーブの場所は変則的な六差路になっていて、真北に進むと久伊豆神社がある。この交差点の一角に庚申塔が立っていた。



庚申塔 元治2(1865)塔の正面 日月雲の下、中央に「庚申塔」両脇に天下泰平・五穀成就と刻まれている。下の台には正三角形の構図に素朴な三猿。


塔の右側面は風化が進み字が読みにくい。資料によると此方 いわつき二十丁とあるという。中央おぼろげに見えているのは「此方」のようだが、その下は判然としない。


塔の左側面は比較的きれいだ。中央に此方、その下は三つに分かれ、のじま地蔵 二十丁、大戸第六天 拾五丁、越ヶや 二里半。下の台には二十近い名前が刻まれている。


気が付いてみると裏面にも此方 のミち と小さな字で刻まれていた。

六差路東路傍 岩槻区南下新井781付近


六差路から南東に向かう比較的細い道に入り200mほど歩くと左側の道路脇、電信柱の陰になるように石仏が並んでいた。左端は個人の墓石で天保8(1837)の銘が見える。


その隣 馬頭観音立像 享保18(1733)舟形光背の中央に馬頭観音立像を浮き彫り。右脇に下新井願主 惣村中。左脇に造立年月日。


頭上に馬の頭を乗せた三面六臂の馬頭観音。白カビのためにその表情をうかがうことはできないが慈悲相だろうか?


右に四基の石塔。右端後ろは全くの不明塔。残る三基は天保3(1832)天保14(1843)慶応3(1867)の馬頭観音の文字塔。いずれも白カビや風化のため文字も読みにくく、残念ながら個々に写真を見ていただくような状態ではなかった。