下内間木氷川神社 朝霞市下内間木36
県道79号線の上内間木交差点から東に入り、バス道を道なりに15分ほど歩くと
右手に氷川神社がある。近くを荒川が流れ、静かな境内は「村社」の趣がある。
鳥居のすぐ先、左側に石灯籠
天保8(1837)竿部正面に「石尊大権現」両脇に
大天狗、小天狗と刻まれていた。竿部裏面に年号。基礎正面に「本村講中」
参道の右側に多くの境内社が並んでいる。鳥居があり階段の上、小さな塚上に
石祠が立っていた。
祠の中
浅間神社 宝暦12(1762)正面に「富士浅間」右側面に年号を刻む。
祠の右手前
石尊大権現塔 天保10(1839)正面「御嶽石尊大権現」その下に
大天狗
小天狗と刻まれている。左側面に年号と先達名、願主名を刻む。
参道を進むと拝殿の近く、左側に4基の石塔が並んでいた。
右から馬頭観音坐像
寛延4(1751)合掌型六臂。小さいがぐっと口を結んで
にらみつける。光背左に年号。足元に字らしきものが見えるが読めなかった。
その左 庚申塔
明和6(1769)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。
唐破風笠付の本格的な庚申塔。木の陰になって見にくいが、しっかりした
彫りで二鶏・邪鬼・三猿がそろっている。
塔の右側面
中央に「奉造立青面金剛」右脇に年号。左脇に庚申待供養塚。
左側面
武州新座郡下内間木村 さらに十方助力 講中二十八人と刻まれていた。
隣 水神宮
文政3(1820)石祠の正面に「水神宮」台の正面に「大正九年荒川
改良工事有
當宇依之多年水害地一変美田也」で始まる長い銘文。もともと
荒川堤防上にあったものが移されてきたものらしい。台の右側面に昭和十年、
下内間木中、5名の名前。左側面にも5名の名前が刻まれていた。さらに石祠の
裏面には昭和五十八年改修とある。こちらに現在のような状態で祀られたのは
最近のことのようだ。
一番左 水天宮
明暦元年(1655)正面に「水天宮」素朴な佇まい。
裏面に年号。風化が進み文字はほとんど読めない状態だった。
西福寺観音堂 朝霞市下内間木1635
下内間木氷川神社の西約100m、内間木の最も南の地域に西福寺観音堂がある。
西福寺は廃寺になり無住の観音堂と墓地が残っていた。
お堂の所は少し高くなっている。階段の左がわには多くの石仏が並んでいた。
東向きに7基の石塔。大型の宝篋印塔がとりわけ目立つ。
左
聖観音菩薩立像 寛文7(1667)全体がカビで真っ白になっているがかろうじて
年号だけは確認できた。右脇にかすかに禅定尼と見える。個人の墓石のようだ。
続いて板碑型の石塔が三基続く。いずれも中央に権大僧都法印・・不生位とあり、
僧侶の墓塔のようだ。左の一基、右脇に明暦4(1658)の年号が見える。
2番目
延宝9(1681)カビがひどく一番字が読みにくい。
中央に五輪塔を彫ったこちらの石塔は寛永7(1630)の銘がある。調べて見ると
西福寺開基の香宗上人の墓塔ではないかということだ。
宝篋印塔の陰に隠れるように小さな石塔が立っていた。表面は白カビが多く
文字がはっきりしない。それでも正面中央は「青面金剛」と読めた。右脇
かすかに文化二のようだ。左脇 東
ぢぞう。道標を兼ねた庚申塔らしい。
宝篋印塔
明和9(1772)基礎部正面に「法印裕賢」とありこれも僧侶の供養塔だ。
宝篋印塔
宝暦10(1760)江戸中期以降の笠型宝篋印塔。相輪が発達している。
塔身4面に梵字。基礎部正面「奉誦普門品連経供養塔」と刻まれていた。
基礎部裏面に年号。両脇に連衆十四人、十方助力と刻まれている。
南向きに六基の石塔が並んでいた。3番目の卵型の墓石は僧侶の墓石。
左
馬頭観音立像 享保19(1734)慈悲相 合掌型二臂。バランスがよく美しい。
光背右「奉造立馬頭観世音菩薩汝是畜生發菩提心」左脇には年号を刻む。
その下に武州新座郡下内間木村と刻まれていた。
隣 廻国供養塔
文化13(1816)正面中央「奉納大乗妙典六十六部廻國供養塔」両脇に
天下泰平、國土安全。上部には阿弥陀三尊の梵字を彫る。塔の右側面には年号。
左側面に武州多摩郡前沢邑
行者久心と刻まれていた。
僧侶の墓石の右
ひとつの台に三基の馬頭観音の文字塔が立っていた。カビもひどく
隣の石塔との隙間が狭すぎて十分に読み取れない。明治8(1875)明治11(1878)
安政4(1857)の銘がある。いずれも施主は個人名のようだった。
観音堂の西側には小堂が立っていて、その左右に石塔が並んでいた。
左 庚申塔 延宝7(1679)聖観音菩薩立像。光背右「奉寄進庚申供養二世安樂」
光背左に年号。その下に数人の名前が刻まれていた。足元に三猿を彫る。
右 庚申塔 明治20(1887)前面、顔のあたりが剥落しているが衣服や蓮の花から
聖観音菩薩立像と思われる。足元に三猿が彫られ、これもやはり庚申塔だろう。
江戸時代初期なら地蔵庚申、観音庚申なども考えられるが、江戸時代中期以降
庚申塔の主尊は青面金剛が一般的であり、明治に観音庚申とは珍しい。
塔の右側面「家内安全為子孫也」左側面に年号。続いて願主 個人名を刻む。
小堂の前の標石 嘉永6(1853)正面に「成田山」と刻まれていた。
小堂の中 不動明王坐像。年代などは確認できない。赤く彩色された火焔光背。
床に矜羯羅童子と制吒迦童子の像もあったがうまく撮れなかった。
小堂の右に三基の石塔。左 馬頭観音立像。相当に風化が進んでいてほとんど
文字が確認できない。左脇に大□□右ェ門とかすかに読める。
中央 馬頭観音塔 天保5(1834)正面に「馬頭觀世音」右側面に年号を刻む。
左側面 カビの中 武州新座郡 下内間木村 馬持中。荒川の渡しも近く、
馬を使った運送を生業とする人たちもいたのだろう。
右 庚申塔 享保20(1835)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。本格的な庚申塔だ。
足元 かなり風化が進み両脇にぼんやりと二鶏。邪鬼は向かって右に顔が見える。
三猿の下の部分に講中拾六人 施主 助力 當村中と刻まれていた。
塔の左側面に年号。その下に武州新座郡下内間木村。右側面「奉造立青面金剛」
導師 西福寺と刻まれている。
西の墓地の入口付近、比較的新しい小堂の中に地蔵菩薩が祀られていた。
地蔵菩薩立像 天明2(1782)穏やかな様子でたたずんでいる。
台の正面「奉建立地蔵尊一軀」左側面 念佛講中 並 十方助力とあり、並べて
本空釋妙秀信女ねん 安永7年(1778)と銘が続く。こちらは命日だろうか?
右側面には下内間木村とあり、天明二年 無染 代立之と刻まれていた。
観音堂のある敷地の一番東の一角に「観音地蔵堂」の額がかかった小堂がある。
地蔵菩薩立像 正徳6(1716)台もいれると2mを越す高さの大きなお地蔵様だ。
台の正面中央に「為二世安樂」右に武州新座郡内間木村、続いて施主村中。
左に年号、続いて願主 個人名が刻まれていた。