小堤の石仏

能満寺 川越市小堤286[地図]


県道39号線、小畔川を越えて400mほど進み、名細中学校の前の小堤交差点を右折、少し行くと右手に名細小学校があり、その手前の道を右に折れて坂道を下ってゆくと道路右手に能満寺があった。本堂と向かい合う南の入口はいつも扉が閉まっていて中には入れない。あきらめて帰ろうとしたら東の通用口が開いていて、こちらから入ることができた。本堂で手を合わせて南の入口のほうを見る。入口左側、境内の隅に多くの石仏が集められていた。


南側のブロック塀の前、三基の板碑の破片の隣に二基の馬頭観音塔が並んでいる。


左 馬頭観音塔 天明6(1786)駒型の石塔の正面に三面六臂の馬頭観世音菩薩立像を浮き彫り。


上部に梵字「カン」左右に鋭角的な構図の日月雲。頭上にのっぺりした馬の顔。尊顔は白カビのためにわかりにくいが忿怒相か?胸前でふっくらと馬口印を結ぶ。あとの四臂、上の右手はあまり見たことのない武具、左手に法輪。下の左手には斧を逆手に持ち、左手には羂索を持つ。


塔の左側面に造立年月日。右側面に「奉造立馬頭觀世音」


下の台の正面に施主 小堤村中と刻まれていた。


右 馬頭観音塔 万延元(1860)大きな四角な台の上、角柱型の石塔の正面を舟形に彫りくぼめた中に三面八臂の馬頭観音立像を浮き彫り。馬頭観音の八臂像はかなり珍しい。


彫りは細かく写実的。頭上に馬頭。三面ともに前を向くこの形は旧高麗郡に入ってからはよく見かける。中央の顔はやや大きくはっきりとした忿怒相。両脇の顔はややおとなしいが、目は吊り上がっていてやはり忿怒相だろう。馬口印以外の六臂は上から、斧と法輪、剣と棒、与願印と羂索(あるいは数珠か?)を持っていた。


塔の左側面の紀年銘は手前に安政3(1856)脇に發起とあり二名の名前。奥に万延元年(1860)とあり一名の名前。これもあまり見ない。発願主として二名、四年後の造立時に施主の代表として一名ということだろうか。


塔の右側面下部に世話人とあり、奥に馬持中、手前に二名の名前が刻まれている。馬による輸送を生業とする人たちの講もこの馬頭観音塔の造立にかかわっていたようだ。


下の台の正面、志助とあり、その下に當村中、吉田村、その後に五名の名前が続く。


さらに中小坂村、下小坂村、□□村、□□村、大□村、上寺山村、上戸村、的場村、天沼新田、上廣谷村、五味ケ谷村、下廣谷村、坂戸村、粟生田村と多くの村の名前が刻まれていた。

 


瓦屋根の小堂の中には五基の石塔が並んでいた。


左から 地蔵菩薩立像 宝暦3(1753)四角い台の上に台形?の敷茄子。さらに蓮台に立つ大きな丸彫りの地蔵菩薩像。


ゆったりと豊かな顔をしたお地蔵様。錫杖も宝珠も欠けるっことなく、彫りも細部まで残っている。首に補修跡が見当たらないのも丸彫りの地蔵菩薩像では珍しい。


敷茄子の正面に志助 村中。左側面に造立年が刻まれていた。


その隣 大乗妙典供養塔 明和2(1765)塔の上には地蔵菩薩坐像。頬を膨らました顔の様子はなんだか異様な感じがする。


風化が著しく進み、塔の一部は剥落していた。塔の正面「 奉納 大乗妙典日本回国」下部両脇に願主 現了。右側面にはいくつか戒名が刻まれていて、その下に施主 個人名。左側面に造立年月日。さらに小堤村と刻まれている。


続いて 六面石幢 元禄6(1693)六角形の台の上に六面の石幢、正面に合掌型の地蔵菩薩立像を浮き彫り。両脇にも地蔵菩薩像が見えて六地蔵菩薩石幢と思われるのだが・・・


正面下部中央に童子戒名。両脇の紀年銘は命日か?造立者は個人名となっていて墓石ということだろうか?


石幢は損傷が甚だしく、上部は笠がもぎ取られたような状態、後ろの三面は完全に失われていて地蔵菩薩像は三体だけが残されていた。


その隣 不動明王立像。舟形光背に剣と羂索を手にした不動明王、紀年銘が確認できず詳細は不明だが、素朴でおだやかな立ち姿は江戸時代初期のものか?川越では他の地方でよく見かける江戸時代後期の「成田山不動尊像」を見かけない。ふしぎな気がする。


光背右脇に「奉彫刻不動明王像爲□上菩提也」その横に施主□□。


光背左脇にも銘が刻まれているが、こちらはうまく読み取れない。このあたりに紀年銘がありそうな気がして一生懸命読んでみたのだが全く歯が立たなかった。


右端 馬頭観音塔 文化12(1815)角柱型の石塔の正面に一面二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。頭上に馬頭。尊顔は風化のためはっきりしないが忿怒相だろう。胸前で馬口印を結ぶ。


塔の右側面に造立年月日。下半分は剥落、かろうじて造立年だけは確認できる。


左側面には武刕高麗郡小堤村 願主とあり、個人名が刻まれていた。

 

松慶庵安実堂墓地 川越市小堤734[地図]


県道39号線小堤交差点の次の小堤(北)交差点は変則的な七差路になっている。ここからまっすぐ北へ向かい、500mほど進むと道路右側に墓地があった。入口左側に六地蔵の小堂が見えるが、中央の如意輪観音塔とこの六地蔵塔はともにかなり新しい。


入口右側にも小堂があって、六地蔵と向かい合うように多くの石塔が並んでいた。


中央 地蔵菩薩立像 寛政6(1794)角柱型の石塔の上、蓮台に立つ丸彫りの地蔵菩薩像。大きな欠損はなく顔も美しい。


石塔の正面中央「念佛講中」両脇に造立年月日。左側面に施主 小堤惣村中。奥に世話人ひとりの名前が刻まれていた。


後列左端 地蔵菩薩立像 安永6(1777)舟形光背、梵字「カ」の下にずんぐりとした体形の地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背右脇に造立年月日。


足元の部分、右に小堤村施主とあり、四名の名前。さらに左端に惣村講中と刻まれている。


前列右端 地蔵菩薩立像 正徳2(1712)小さな舟形光背に穏やかな表情の地蔵菩薩像を浮き彫り。彫りは繊細で優美。光背左脇に造立年月日。足元の部分に施主十二人、さらに世話人だろうか、一名の名前が刻まれていた。


六地蔵の小堂の奥に角柱型の石塔が南向きに並んでいる。いずれも施主は個人だった。左から納経順礼供養塔 享和3(1803)、百八十八ヶ所順礼供養塔 天保12(1841)、百八十八ヶ所供養塔 昭和10(1935再建)、百番供養塔 文久4(1864)、百八十八ヶ所供養塔 明治18(1885)、善光寺参拝供養塔 安永2(1773)、順礼供養塔 天保4(1833)江戸時代中期から昭和の時代まで、ここ小堤村では観音霊場、四国霊場、善光寺などの順礼が盛んだったことがわかる。講中によるものではないが文化資料としては貴重なものだと思う。


順礼供養塔群のあとには、二基の馬頭観音塔と、上部に如意輪観音が浮き彫りされた石塔が並んでいた。


南向きに 馬頭観音塔 嘉永4(1851)角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音」その上の部分、写真ではわかりにくいが少し膨らんでいて馬頭が彫られていたのかもしれない。塔の右側面に造立年月日。左側面に施主、個人名が刻まれている。


その隣、東向きに 馬頭観音塔 天保3(1832)角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音」その上の部分は白カビが厚く遠目には判然としない。近づいて見ると左右に瑞雲付きの日天、月天、その間に馬頭という構図になっていた。塔の右側面に造立年月日。左側面に小堤村 願主とあり、個人名が刻まれている。


その裏 百八十八ヶ所供養塔 文久2(1862)正面上部に二臂の如意輪観音坐像を浮き彫り。塔の右側面に造立年月日。左側面には志願之施主 小堤村とあり、二名の名前が刻まれていた。


二基の馬頭観音のあたりで右に曲がって墓地の南のほうを見ると、正面に小堂が立っている。小堂の中には庚申塔が祀られていた。


庚申塔 享保11(1726)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。どんぐりマナコ、横に押しつぶされた鼻、口をへの字に独特の風貌。頭上に蛇がとぐろを巻く。光背右脇「奉造立青面金剛供養願成就所」左脇に造立年月日。


足の両脇、弓矢の下あたりに二鶏。足元の邪鬼は寝そべるのではなく四本の細い足で立つユニークな形。その下に正面向きの三猿。さらにその下の台の正面、右端に小堤村とあり十数人の名前が刻まれていた。