板橋区桜川・小茂根・東新町

御嶽神社 板橋区桜川1-4

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東武東上線上板橋駅前の道を南に向かって歩く。川越街道を横切って5分ほど進むと右手に御嶽神社の鳥居が見えてくる。参道右手、小さな神社の石祠の隣に不動尊像が祀られていた。

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不動明王立像 天明8(1788)右手に剣、左手に羂索。足下ははっきりしない。この不動明王は元石神井川の堰に立っていたものを河川改修工事に伴いこちらに移されたものだという。

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光背右側面に天下泰平 國土安全。左側面には年号に続いて栗原講中と刻まれていた。

小茂根毛呂山公園南路傍 板橋区小茂根4-3

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御嶽神社の南、石神井川を越えてさらに300mほど先にある小茂根毛呂山公園の二丁ほど南の交差点の角に檻のような堂があり、中には二基の石塔が並んでいた。

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左 庚申塔 元文2(1737)日月雲 青面金剛立像合掌型六臂。光背右脇に「奉彫刻大青面金剛供養塔」左脇に造立年月日。

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青面金剛の足下に邪鬼と三猿。邪鬼は正面向きで腕の間に顔を乗せている。三猿の下には武州豊嶋郡上板橋村室講中六人と刻まれていた。

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右 地蔵菩薩坐像 天明5(1768)お地蔵さまは片膝を立てて坐っている。下の台の正面には願文。左側面に年号が刻まれていた。

川越街道南路傍 板橋区東新町1-49

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川越街道を成増方面から池袋方面に向かい、東新町交差点の次の信号を右折してすぐ、右手の角のマンションの植え込みの中に庚申塔が立っていた。

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庚申塔 安永6(1777)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。

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彫りははっきりしていて美しい。丸顔の青面金剛は目を吊り上げ正面を睨んでいるがそれほど威圧感は無い。

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足下に二鶏、邪鬼、三猿。邪鬼はすっかりリラックスしていて頬杖をつき片足を持ちあげている。

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塔の右側面に造立年月日。左側面には上之根講中と刻まれていた。

安養院 板橋区東新町2-30

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城北中央公園の東、城北高校の南に安養院がある。山門の手前左側に石塔が立っていた。

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寺導 明治41(1908)正面に「弘法大師霊場」右側面には従是右六町第五十番長命寺。左側面に左 十四町八十番西光寺 廿四町六十一番能満寺と刻まれている。安養院を含めて豊島八十八ヶ所霊場となっている。裏面には年号と施主、個人名が刻まれていた。

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山門を入ってすぐ左側、宝篋印塔をはさんで二基の地蔵塔が立っている。写真は昨日再訪して撮りなおしたもの。帽子と前掛けが真新しいものに替えられていた。

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左 地蔵菩薩立像 元文4(1739)丸彫合掌型。台の正面中央に上之根講中。両脇に造立年月日が刻まれている。

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中央 宝篋印塔 正徳3(1713)江戸時代前期らしく立派な隅飾と相輪が印象的。台の裏、造立年月日の脇に「講中」の文字があった。

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右 地蔵菩薩立像 延享元年(1744)丸彫延命地蔵型。台の正面に上根 新田 講中。台の両側面に造立年月日。

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山門を入って右側に大きな地蔵菩薩坐像が立っていた。右手に錫杖、左手に宝珠を持ち、両膝の上に二人の童子を乗せている。下の台は二段になっていて、それぞれの側面にたくさんの戒名と命日が刻まれていた。その命日は安永5(1776)から昭和24(1949)に渡っている。新しい年代の命日は後刻されたものか?この石塔自体がいつ建立されたのか、その判断は難しい。

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本堂の西側に鐘楼が立っている。その向こうに六地蔵の姿があった。

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三体が一つの台の上に立っている。こちらは左の三体。真ん中の像は顔の部分が削れていた。下の台には「奉造立地蔵尊」などの文字とともに年号が見える。左の二基は享保12(1727)、右は享保11(1726)

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右の三体。真ん中の像だけ体のバランスがおかしいのは頭部を補修したものか。こちらの台の銘は左から享保12、享保11、享保12となっていた。

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本堂の左側に大師堂、さらにその向こうに新しい多宝塔が立っていた。その間の階段を上ってゆくと本堂の裏の山いっぱいに墓地がひろがっている。

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階段の途中に六地蔵が祀られていた。像の形、色、台の形など、一見して不揃いな感じがする。どうも二つのタイプに分かれそうだ。

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一番左 やや体のラインが細身で色白。下の台は比較的薄くスマート。

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右から3番目 こちらはがっしりした体形で色も黒っぽい。蓮台の下に薄い台があり、その分厚みがある。二組の六地蔵からいいとこどりして六体を揃えたのではないだろうか。それぞれの台にも像自体にも銘は見られず、造立年月日などはわからない。


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階段を登りきった正面が墓地になる。その右手前の一角に四基の石塔が並んでいた。目の前は竹藪になっていて石塔の前は狭く昼間でも薄暗い。

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左 地蔵菩薩立像 享保19(1734)像の部分は風化が著しく様子がはっきりしない。

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台の正面中央に「念佛講中」両脇に渡って造立年月日を刻む。右下に上板橋中内、左下に同行拾八人。右側面に 右ハ かわごへ道と刻まれていた。

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左側面には 左ハ たなし道。脇に講家とあり個人名が刻まれている。

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右隣 唐破風角柱型の大きな石塔 安永5(1776)正面に聖観音菩薩立像、左側面に如意輪菩薩坐像が陽刻されていた。

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正面の聖観音菩薩立像の下「奉納坂東西國秩父供養仏」観音霊場の順礼供養塔のようだ。

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塔の右側面は真っ暗でなかなかうまく写真が撮れなかった。こちらには千手観音観音立像。像の下に十名ほどの名前が刻まれている。左側面の如意輪観音坐像の下の部分にも十名ほどの名前が見える。

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裏面にはこの石塔が昭和12年に安養院に移されたいきさつが刻まれていた。

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その奥 大乗妙典供養塔 寛保2(1742)正面上部に梵字で阿弥陀三尊をあらわし、その下に「奉納大乗妙典六十六部供養塔」上部両脇に「天下和順・日月晴明」中ほどに造立年月日、右下 武州豊嶋郡、左下に上板橋村 願主 頓入。

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塔の右側面 右 河こゑみち、左側面には 左リ たなしみち と刻まれている。

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一番奥に唐破風笠付の庚申塔 年代不明。日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。

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足下に邪鬼と三猿。先日紹介した川越街道南路傍の庚申塔と同じく、ここの邪鬼も頬杖をついている。この地域の特徴なのだろうか?

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塔の左側面に 是より左 ふぢみち、右側面には 是より右 かはこえ道。その脇に武州豊嶋郡上板橋中内出施主とあり、その下に個人名、さらに 同行十人と刻まれていた。

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墓地の入口左側に大きな地蔵菩薩坐像 文化13(1816)台の正面には和歌。左側面に願文。右側面には法印宥範親族聖霊で始まる四行の銘文。裏面に造立年月日。続いて法印慶範と刻まれている。

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墓地の入口、大きな地蔵菩薩坐像の左側、横三列に合計26基の石仏が並んでいた。今日は前列の13基を見てみよう。

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右から 地蔵菩薩立像 安永7(1778)錫杖の先と宝珠を欠く。下の台は植え込みの庭木で隠れ気味だが、「念佛講中拾五人」の文字が見えた。両脇に造立年月日が刻まれている。

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隣、馬頭観音立像 安永5(1776)唐破風笠付角柱型。正面を浅く彫り窪めて合掌六臂の馬頭観音を彫る。中程両脇に「天下泰平・國土安全」右下に造立年月日。左下に願主 個人名。

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3番目 大きな唐破風笠を持った角柱型の供養塔 宝永4(1707)正面上部、蓮座の上の円の中に梵字「ア」その下に「奉造立石塔供養講中二世安樂。塔の右側面に造立年月日。左側面には武州豊嶋郡上板橋村講中十二人と刻まれていた。

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その隣 庚申塔 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。像の右脇「奉造立供養意趣六拾二歳以前」左脇に爲村中二世安樂也。その下に造立年月日。

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青面金剛の足下両脇に薄く二鶏を彫る。邪鬼は小さく頭が右向き。三猿の下には小さく栗原村と刻まれている。

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続いて 庚申塔 文久2(1862)正面中央に大きな字で「庚申」

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塔の右側面上部に右とあり、下のほうに「道」と見えるがその間の文字がはっきりしない。左側面は 左 あらい薬師道。脇に造立年月日が刻まれていた。

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その隣は馬頭観音塔 文化元年(1804)立派な日月雲の下に「馬頭観世音」彫りが深い。塔の左側面に願主 二名の名前を刻む。

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続いて地蔵菩薩立像。錫杖と宝珠を持つ延命地蔵型。像にも台にも文字が見当たらない。資料にも該当するものが無く詳細は不明。

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その隣 地蔵菩薩立像。こちらも銘が確認できず詳細は不明だが、多宝塔脇の階段途中に祀られていた六地蔵の右の三基ととてもよく似ている。以前は六地蔵として祀られていたものをこちらに移したものではないだろうか。

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次は馬頭観音坐像 嘉永6(1853)50cmにも満たない小型の像で上部が欠けているが、三面六臂 忿怒相の馬頭観音の姿は迫力がある。台の大半が土に埋もれていて側面に銘が刻まれているらしいが確認はできなかった。

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続く四つの石塔は個人の墓塔だが、前列を飾るものなので取り上げておく。こちらは如意輪観音坐像 享保14(1729)個人のものにしてはかなり保存状態がいい。

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隣は阿弥陀如来立像。両脇に元禄3(1690)と宝永3(1706)二つの命日が刻まれていた。

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続いて文字だけの墓石があり、前列の最後は地蔵菩薩立像。こちらは延宝4(1676)と宝永3(1706)の二つの命日が刻まれている。

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二列目には九基。前の石仏のために正面からは全体が見えにくい場合が多い。右から大乗妙典供養塔 文化4(1807)正面上部に奉納とありその下に「大乗妙典日本廻國供養塔」両脇に渡って上のほうに天下泰平、中ほどに造立年月日が刻まれていた。

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塔の左側面 武州豊嶋郡上板橋村、さらに行者名が刻まれている。出羽三山供養塔や大乗妙典供養塔は修験僧が関わっているものが多いようだ。

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二番目は庚申塔 元禄10(1697)青面金剛立像 合掌型六臂。法輪を持つことが多い左上の手に鈴を持っているのは珍しい。資料では唐破風笠付となっていたが現在はご覧のように笠はなくなっている。青面金剛の右脇に「奉新造立石塔講衆二世安樂所」左脇に造立年月日。続いて施主敬白と刻む。

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前の石塔が邪魔で下部の写真はきれいに写ったものが無かった。ピンボケだが確認のために見ていただくことにする。足の両脇に比較的美しい二鶏。足下の邪鬼は右向きにうずくまり、その下には正面向きの三猿が彫られていた。

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三番目も庚申塔 宝暦4(1754)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。青面金剛の顔とつま先、剣、ショケラの頭部、邪鬼の顔などが白くなっているのはなぜだろう。青面金剛は白目をむいているようにも見える。

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狭い所の写真で見にくいが、青面金剛の足の脇に線刻された二鶏。邪鬼は左向き。三猿は左の二匹が右を向き右の一匹が左向きというあまり他では見たことのない構図になっている。

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塔の右側面に造立年月日。続いて「奉造大青面金剛供養尊講中九人各願悉地所」左側面には上板橋邑 小山願主とあり、個人名が刻まれていた。

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その隣 大乗妙典供養塔 明和2(1765)正面 梵字「ア」の下「奉納大乗妙典日本囬國供養墓」その右脇に「天下和順」続いて造立年月日。左脇には「日月晴明」続いて武州足立郡下青木村 行者 長七と刻まれている。

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塔の右側面に三界萬霊、左側面には念佛講中と刻まれていた。

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続いて阿弥陀如来立像 延宝4(1676)大きな日輪光背を持つ。右脇に「奉造立石佛念佛講元十一人」左脇に造立年月日。

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その隣に唐破風笠付角柱型の供養塔 元禄15(1702)正面 円の中に蓮華とともに梵字「ア」を彫りその下に「為造立供養意趣者 施主等二求放満也」ざっとそんな風に読めるがその意味は?なんの供養塔だろうか?

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続いて 庚申塔 元文2(1737)これも唐破風笠付角柱型。正面中央を彫り窪めた中に梵字「ウン」その下に「大青面金剛供養塔」右枠部に上板橋村 願主 個人名。左枠部に講中十一人と刻まれていた。

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左から2番目 地蔵菩薩立像 正徳5(1715)丸彫りのお地蔵さまは左手の宝珠を欠いている。資料によると蓮台の下に台があって三つの面に「武州豊嶋郡上板橋村」「施主講中二十三人」などの銘があるということだが、台は土の中に埋まっていて見ることはできない。

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二列目の左端は 薬師如来立像?明和4(1767)この石仏は資料に記載がなく確かではないが、両手で持っているのは薬壷のように見えるので薬師如来かと思われる。光背右に「三界萬霊」左に造立年月日。その下に願主だろうか、徳心と刻まれていた。

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三列目には四基の石塔。右から出羽三山百番供養塔 寛政10(17898)角柱型の石塔の正面上部に聖観音菩薩坐像を彫る。その下に「羽黒山・湯殿山・月山 百番供養塔」百番というのは西国・坂東・秩父の観音霊場。出羽三山とこれら100か所の観音霊場順礼をともに成し遂げたということだろうか。塔の左側面に造立年月日。右側面には武州豊嶋郡上板橋村と刻まれていた。

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その隣 地蔵菩薩立像 安永9(1780)唐破風笠付角柱型の石塔の正面を大きく彫り窪めた中、蓮座に立つ合掌型の地蔵菩薩像が陽刻され、その両脇には造立年月日が刻まれている。

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塔の両側面、上部に梵字で、その下には漢字で願文が刻まれていた。

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続いて庚申塔 享保12(1727)青面金剛立像 合掌型六臂 唐破風笠付角柱型。この位置では周りの石塔にさえぎられてしまい全体の様子を見ることは難しい。

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像の右脇に「奉彫刻青面金剛供養塔」左脇に造立年月日。下部両脇には上板橋邑 講中拾四人と刻まれている。足下に三猿は見えるが、邪鬼・二鶏は見当たらなかった。

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一番左 庚申塔 寛保4(1744)青面金剛立像 合掌型六臂。植え込みの奥にあり、前にある石塔のためにこの庚申塔も見えにくく、塔の下の台の正面に三猿が彫られているのだが写真は撮れない。

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青面金剛の後ろの二組の腕が平板で、腰のあたりから伸びているのもちょっと不自然な感じがする。塔の左側面に造立年月日。その下に講中拾八人と刻む。

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右側面には「奉造立大青面金剛供養塔」その脇に上板橋と刻まれていた。