砂原の石仏

 

砂原土手遊歩道脇 越谷市砂原


県道48号線の砂原土手バス停付近で県道から土手の遊歩道に入ると、左手の茂みの中に五基の石塔が並んでいる。左端の一番大きな石塔は馬頭観音塔だった。


馬頭観音塔 宝暦3(1753)駒型の石塔の正面、梵字「サ」の下に六臂の馬頭観音菩薩立像を浮き彫り。右脇に「奉供養為如是」左脇に「畜生發菩提心也」頭上の馬の頭はくっきりと大きく存在感がある。しかめっ面でむっつりと立つ馬頭観音。彫りは比較的厚い。


塔の左側面 越ケ谷領砂原村とあり、その下に個人名。


右側面には造立年月日が刻まれていた。横のアングルでは馬の頭も若干イメージが違って見える。

砂原土手バス停南西墓地前 越谷市砂原850-2向


県道48号線を東に向かい砂原土手バス停近くのT字路交差点を右折する。150mほど先の四つ角の左側、墓地の入り口に二基の石仏が並んでいる。


左 阿弥陀如来立像 寛文2(1662)舟形光背上部に阿弥陀三尊を梵字で表し、その下に阿弥陀如来像を浮き彫り。胸のあたりに断裂跡があり、上と下が別物のように見える。


左手は与願印。この場合ふつうは右手は施無畏印のはずだが、断裂後に補修されたときに宝珠のようなものを持たされたようだ。右脇「奉納百堂成就為二世秀乗也」左脇に造立年月日。続いて砂原村 同行 十二人 敬白と刻まれていた。


右 庚申塔 宝永5(1708)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。長く路傍にあったためだろう、風化が進み白カビが多い。


状態が悪く近づいてみても全体にはっきりしない。邪鬼は左向きか?二鶏は確認できない。下部に正面向きの三猿が彫られていた。


塔の右側面も白カビが多い。中央に「奉青面金剛供養現當二世所願成就攸」その脇に右 ぢおんじ道、左 いわつき道。その下の部分に七名の名前が刻まれている。


左側面は比較的きれいで銘も読みやすい。中央「奉造立念佛供養所願圓満攸」上部両脇に造立年月日。下部両脇に 同行 廿人。さらにその下の部分に八名の名前が刻まれていた。

しらこばと運動公園北東路傍 越谷市砂原775


そのまま南に進むと、しらこばと運動公園に着く。その200mほど手前、交差点を左折してしばらく行くと、道路左手、赤胴色のタンクと電信柱に挟まれて石塔が立っていた。


庚申塔 享和3(1803)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。白カビは少ない。塔の両側面に造立年月日が刻まれている。


足の両脇に二鶏。足元に不気味な邪鬼が様子をうかがう。邪鬼の下に三猿。その下に願主、世話人合わせて十数名の名前が刻まれていた。

 

聖動院跡墓地 越谷市砂原1455西


県道48号線の大砂橋南の信号交差点付近から斜め左に分かれて〆切橋方面に向かう道がある。大きく右にカーブするあたりに久伊豆神社があり、その手前に墓地があった。今は廃寺となった聖動院の跡だという。


奥にあるお堂の手前に石塔が並んでいるが、多くは個人の墓石だった。


その中に石橋供養塔 元文4(1739)角柱型の石塔の上に丸彫りの地蔵菩薩坐像が乗っている。頭の欠けた丸彫りの石地蔵が塔の右側面に寄り添うように立っていた。


蓮台の上に坐す地蔵菩薩像。錫杖の先が欠け、やはり丸彫りの像だけに首にも補修跡が見られる。


石塔の正面 上部に梵字「カ」その下に二行、右に「奉建立石橋供養卒都婆之意趣者・・・」左に「天下泰平國土安穏五穀成就萬民豊樂・・・」上部両脇に造立年月日。下部両脇に越ケ谷領 砂原村。


塔の左側面は多くの人の名前が刻まれているようだがはっきりとは読み取れない。右側面 上部に庚申組中とあり、こちらは三段に渡って二十数名の名前が刻まれている。


お堂の脇を通って奥のほうに行くと、個人の墓地の中にひときわ高い変わった形の笠付きの石塔が立っていた。宝篋印陀羅尼供養塔 天明6(1786)?笠の下の円形の面それぞれに四つの梵字「ウン」「タラーク」「キリーク」「アク」下の台の正面には施主とあり個人名を刻む。


塔の正面中央「一切如来心秘密全身舎利寶篋印陀羅尼 為代々先祖」上部両脇に四行の梵字文。下部両脇に寛延元年(1748)の紀年銘に続いて野嶋山浄山寺、砂原邑野口氏などの文字が見える。


塔の左側面上部に六行の梵字の文。その下は漢文でこちらも六行。さらに村々取添田地 代々先祖性霊と続く。


左側面と裏面は同じ構成になっていた。上部に梵字の文が六行。その下に漢文で六行。さらに二つの戒名とその命日。四つの命日は延享4(1747)から天明6(1786)で、この石塔の造立は天明6年以降ということになるだろう。

 

久伊豆神社 越谷市砂原1455


聖動院墓地の隣の久伊豆神社。道路のほうから石鳥居の奥に朱塗りの二の鳥居、さらにまたその奥に拝殿が見える。入口左側、緑色のフェンスの向こうに石塔が立っていた。


猿田彦大神塔 明治5(1872)大きな台の上、角柱型の石塔の正面「猿田彦大神」台の正面中央に「いわつき」資料にはその下に「二り」とあるというが今は土の中のようだ。両脇に10名の名前が刻まれている。


塔の右側面に造立年月日。その脇に歌が刻まれ、さらに 此方こしがや一り と刻まれていた。台の右側面に正面と同じく10名の名前。


塔の左側面 此方 まくりへ一り、かすかべへ三り。続けて大きく埼玉郡 砂原村。下の台は左半分が破損、5名の名前だけが確認できる。台の裏面にも破損があるが、上に世ハ人とありその下に5名の名前が刻まれていた。


境内に二基の庚申塔が参道に背を向けるように並んでいる。目の前の道を挟んだ向かい側には前回見ていただいた聖動院墓地のお堂が立っている。


右 庚申塔 文化2(1805)角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。円形の頭光背を持つ。白カビのために一部はっきりしないが、岩槻でよく見た江戸時代後期の一つの典型的なタイプ。彫りは細かく写実的、青面金剛の衣装の右の裾が螺旋状に跳ね上がる。


<参考>須賀香取稲荷神社 岩槻区新方須賀1056 寛政12(1800)


青面金剛は二匹の邪鬼の頭を踏む。このあたりがもっとも風化が進んでいて様子が分かりにくい。よく見ると左端の膨らんでいる部分、外を向いて座る見猿のような形だ。また中央には一部が剥落しているところに薄く猿の頭が残っているような気がする。そうなると右端が気になるが、ここはやはり剥落がありそれらしいものが見つからない。確かなことは言えないが左右が外を向き中央が正面向きという構図の三猿ではないだろうか?


塔の右側面に造立年月日。その横に是より こしがや。


左側面には 是より 志めきり。続いて砂原村講中と刻まれていた。


台の正面中央にいわつき。両脇に10名の名前。台の左右両側面にもそれぞれ10名の名前が刻まれている。


左 庚申塔 嘉永元年(1848)二段の台の上、角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。こちらも白カビが多い。邪鬼は頭を左にしてうずくまる。上の台の正面に三猿。左の言わ猿が正面向き、中央の聞か猿が斜め左を向き、右の見猿が後ろ向きという面白い構図。下の台の正面には中央に講中。両脇に砂原 東組と刻まれていた。


塔の左側面に造立年月日。右側面には大きな字で「岐太神」岐の神(クナドノカミ)とは、道の分岐点、峠、あるいは村境にあって外敵や悪霊の侵入をふせぐ神、道祖神のようなものらしい。


下のほうの台の両側面にそれぞれ十数名の名前が刻まれていた。合わせて30名を超える比較的大きな講のようだ。