岩槻区大野島

普門院墓地 岩槻区大野島246


大光寺の南で県道80号線から分かれ、元荒川に沿うように県道325号線を南に進む。左手に神明神社を見て、さらに500mほど先、細い道を左に入ると墓地があった。廃寺になった普門院の墓地らしい。墓地の前には大野島自治会館が立ち、その広い駐車スペース?の隅に石塔が並んでいた。


右端 庚申塔 嘉永4(1851)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


青面金剛は三眼。その逆立った髪の中にドクロの顔が見える。右手に剣、左手に合掌するショケラを持つ。足下の邪鬼は二匹、不気味な顔を並べている。岩槻ではこのパターンもよく見る。


二段になった台の上の台の正面に三猿。いずれも片手しか使わないルーズな様子が岩槻らしくて面白い。下の台の正面には大きく講中と刻まれていた。


塔の右側面に造立年月日。左側面に大野島村。


上の台の側面は無銘。下の台の両側面には合わせて50人近い名前が刻まれている。


その隣 地蔵菩薩立像 正徳元年(1711)光背上部は一部欠けて、塔全体に白カビが目立つ。個人の墓石のようだ。


続いて 庚申塔 延宝8(1680)白カビがこびりついていて文字が読みにくい。


近づいてもはっきりしない。上部に日月、ぞの下に瑞雲はどうか?資料によると中央に阿弥陀三尊の梵字。その下に「奉供養庚申二世・・」両脇に造立年月日が刻まれているという。


下部にシンプルな三猿。その下の部分にも文字らしいものが見えるが施主名だろうか?


その奥に疱瘡神塔 延享4(1747)石祠の中に「疱瘡神」


左側面に施主 大野島村中、右側面に造立年月日が刻まれていた。


さらにその隣 六地蔵塔 享保7(1722)六個の石塔の正面、上部に梵字、その下にそれぞれの地蔵名。左端の延命地蔵塔の右側面に普門院住職権律師 向良圓と刻まれている。


墓地の入口近く、ブロック塀に隠れるように、地蔵菩薩坐像を乗せた石塔が立っていた。



丸彫りの坐像は欠けた部分もありカビに覆われた部分もあり、経年による風化が進んでいて痛ましいが、頭部に円形の光背を負ったその顔はどこか優し気に見える。


塔の正面 梵字「カ」の下に「奉造立地蔵菩薩尊像一躯為二世能引道也」右下に浄入沙弥。梵字「サ」の下に「奉供養日本回國六十六部納経成就處也」左下に宝暦3年(1753)の銘。塔の右側面に願文が刻まれ、左側面には寛保元年(1743)の紀年銘があり、その下に願主は個人名。宝暦3年と寛保元年、どちらが造立年だろうか?

 

川通小学校北の共同墓地 岩槻区大野島170の北


県道325号線と平行して走る一本東の道路沿い、川通小学校から200mほど北、畑が広がる一角に共同墓地がある。


墓地内に入ると左側に石塔が並んでいるが、右の三基は個人の墓石だった。


左端 六字名号塔 享保16(1731)塔の正面を彫り窪めた中、上部に地蔵菩薩坐像を浮き彫り。その下に「南無阿弥陀佛」両脇に造立年月日が刻まれている。


塔の左側面 こしかや道。その下に大野島村。


右側面 上部にちおんじ道。その下に 右ハかち道、左ハのしま道と刻まれていた。


正面に二基の石塔が並ぶ。左 地蔵菩薩立像 延享2(1745)


錫杖も宝珠も欠けず完全な形を保っているが白カビはかなり多い。丸顔の中に静かな表情をうかがうことができる。


下の台の正面 中央に「奉造立地蔵菩薩尊像一躯為二世・・・」下のほうは読み取れない。両脇に造立年月日。


台の左側面は銘が見当たらず、右側面には願文が刻まれていた。


右 宝篋印塔 宝暦6(1756)屋根型の笠を持つ。下から2番目の台、写真右側の側面に造立年月日、その反対の面に大野島村と刻まれている。


基礎部、墓地の入口から見ると裏になるが、こちらの面の中央に「奉造立大乗妙典六十六部廻國供養塔」まわりには願主敬白とあり、たくさんの文字が見えるがこれもカビのためにうまく読み取れない。他の三つの面は梵字が刻まれていて、こちらが正面と考えていいだろう。

県道325号線路傍 岩槻区大野島1032付近


県道325号線沿い、普門院のあたりから200mほど南の道路西側脇に石塔が立っていた。県道325号線は国道16号線の岩槻大橋から南の末田の永代橋まで車で渡れる橋がないのだが、この石塔が立っているところから川のほうに細い道を歩いてゆくと、歩行者が渡れる水道管との併用の橋が架かっていた。二つの大きな橋のちょうど中間点付近になる。


道標 宝永3(1706)風化が進んでいるが、自然石の前面中央 これよりみぎ ちおんじ道。両脇には造立年月日が刻まれていた。