笠幡北地区の石仏

川越西高西交差点角 川越市笠幡2827[地図]


北小畔川の田島橋から北へ300mほど進んだ交差点、角の住宅の生け垣の中に石塔が立っていた。この交差点を右折してしばらく行くと川越西高校の正門の前に出る。


馬頭観音塔 天明4(1784)駒型の石塔の正面に三面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。笠幡にはいって庚申橋南、上野公会堂、川越線西部踏切手前の枝道に続いて、三面六臂の馬頭観音塔はこれが4基目になる。


頭上にしっかりと馬頭。三面はいまひとつはっきりしないが忿怒相か。ふっくらと馬口印を組み、上の右手に矛、左手に宝輪、下の右手に斧、左手に数珠?を持つ。塔の上部両脇に銘が刻まれていた。右脇「奉彫刻馬頭観世音」左脇 右起立意趣者 竹内・・・。


カビが多く読みにくいが、左脇の銘はその下に続いて 生年 九十七歳 之寿也。私の読み違いかもしれないが、平均寿命が50才とか60才とかいう時代?に驚くべき長寿である。右下にも文字らしきものが見えるがこちらは読み取れなかった。


塔の左側面に造立年月日。その横に施主二名の名前が刻まれている。

観音堂 川越市笠幡2483[地図]


川越西高校の北、住宅街のはずれに観音堂があった。ここの観音堂は江戸時代、道目木、半沢、隠ヶ谷戸の観音経講中によって建立されたものだが、昭和35年に惜しくも消失。同年、願主10名によって再建されたものらしい。敷地の西のブロック塀の前に石塔が並んでいる。左の基壇の上の大きな聖観音菩薩坐像は平成15年にやはり10名の願主によって造立されたものだという。その脇に丸彫りの石地蔵と小型の石塔が立っていた。


地蔵菩薩立像 明和9(1722)顔のあたりに白カビがこびりつき、蓮台は破損している。石塔の正面中央「奉造立地蔵尊」右脇に造立年月日。左脇に乃至法界 一等普□。


塔の右側面は無銘。左側面には願主 笠幡村隠ヶ谷戸 念佛講中 廿八人□、當寮主了傳と刻まれていた。


その隣 馬頭観音塔 昭和4(1929)隅丸角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音」


塔の右側面は無銘。左側面に造立年月日。施主二名の名前が刻まれている。

川越西高校東路傍 川越市笠幡2401-20[地図]


観音堂から北へ進むと八坂神社のある通りに出る。ここから東に向かい道なりに進むと、道路右手に赤い郵便ポストがあって、その向こうに雨除けの下に石塔が立っているのが見える。


地蔵菩薩坐像 寛政3(1791)円形の頭光背を持ち、左足を立てて座る。大きな角柱型の石塔の正面、中央上部に梵字「カ」その下、右から造立年月日。続いて願文。


左側面に笠幡村施主とあり、個人名が刻まれていた。

 

辻の聖観音 川越市笠幡2392向かい[地図]


地蔵菩薩塔の近くにあった郵便ポストのあたりから東へ進むとすぐ道はふたてに分かれる。右の道は下り坂で、右へ緩やかにカーブして北小畔川の道目木橋へ、左の道に入ると目の前の三叉路の角に小堂が立っていた。中には五基の石塔が並んでいる。


右から 馬頭観音塔 弘化3(1846)角柱型の石塔は風化が甚だしく、塔のあちこちで剥落が見られ、銘も一部欠けていた。石塔の正面中央「馬頭觀世音」右脇に弘化□午年。弘化で午年は3年である。左脇は読めないが造立月日だろう。


左側面は手前が大きく欠落。上部奥に北 坂戸とあり江戸時代後期らしく道標になっていた。下部には笠幡村 願主は個人名が刻まれている。


右側面は隙間が狭く写真は下部まで完全には撮れなかった。上部は道標。奥に西 高はぎ?その手前は方向は欠けていてわからないが地名は□原。ためしに南を探したら狭山市に柏原がある。もしかしたら南 柏原だろうか?下部には世話人とあり、右から道目木 半沢 隠ヶ谷戸 中と刻まれていた。


その隣 順礼供養塔 弘化4(1847)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、中央に「月山 湯殿山 羽黒山 秩父 坂東 西國 供養塔」出羽三山と観音霊場の順礼供養塔である。下部両脇の銘は薄く一部しか読み取れないが人名のようだ。塔の右側面、奥に造立年月日。続いて笠幡村 願主とあり二名の名前が刻まれていた。


左側面には世話人とあり、道目木 半沢 隠ヶ谷戸 中。この三つの村の講中は、村の有力者を願主として、二年に渡ってふたつの石塔を造立したことになる。


中央 聖観音菩薩立像 寛政4(1792)舟形光背の上部、梵字「サ」の下に左手に蓮華を持ち、右手与願印の性観音像を浮き彫り。右脇に「奉読誦普門品供養尊講中」左脇に「石橋七ヶ所新造」と刻まれていた。石橋供養塔を兼ねた普門品供養塔である。


足元の部分、中央に蓮華を線刻。その下に、右から笠幡村 道目木。続いて三名の名前。最後に世話人 弥七と刻まれていた。


塔の右側面に造立年月日。左側面を見ると、上部に造立年より10年ほど前の天明3年の紀年銘に続いて權律師玄蓮と刻まれている。この場合の紀年銘は命日だろう。下部には當村光明寺先住、園よっ子に右爲報?恩也。10年ほど前に亡くなった村内のお寺の先代住職の供養のために、村の人たちはこの石塔の左側面を使ってその感謝の意を残したのだろうか。


残る二基は馬頭観音の文字塔。右の馬頭観音塔は右側面に二頭の馬の命日(明治20年と明治25年)が刻まれ、左側面に造立年月日が見えるが、肝心の年号が一部欠けていて明治25年から29年のもの。左の馬頭観音塔は左側面に大正13の紀年銘があり、二基とも施主は個人名が刻まれていた。

「辻の聖観音」北東三差路 川越市笠幡2062向かい[地図]


「辻の聖観音」の左脇の登坂を北東方向に向かうと、次の交差点から道は狭くなるが、そのまま真っすぐに林の中に入る。やがて林を抜けきったあたりの三叉路の角に石塔が立っていた。写真左の道が「辻の聖観音」から来た道で、そちらからは石塔の正面は見えない。


庚申塔 文政2(1819)四角い台の上 自然石の正面に大きく「庚申塔」下の台の正面には高麗郡 笠幡村と刻まれている。


背面にも銘が刻まれていた。右から造立年月日。その横に願主 富士講中。さらに世話人一名の名前。庚申塔の願主が富士講中というのは記憶にない。かなり珍しいのではないだろうか。

 

「辻の聖観音」北共同墓地 川越市笠幡2385北[地図]


前回見た庚申塔の立つ三叉路から「辻の聖観音」に向かって戻ると林を抜けたあたりで道が左右に分かれる。左の道を行くと「辻の聖観音」右の道に入りすぐ先を右折、細い道を北へ進むと道路両脇に墓地があった。西の墓地の真ん中付近、入口近くにトタンでできた小堂が立っている。


右手前に地蔵塔、奥に庚申塔と二基の丸彫り地蔵塔が並んでいた。


右手前 地蔵菩薩立像 慶応2(1866)隅丸角柱型の石塔の正面に地蔵菩薩像を浮き彫り。


塔の右側面に造立年月日。左側面に施主 四名の名前が刻まれていた。個人的な戒名は見当たらず、また念佛供養、爲二世安樂、講中などの銘もなく、造立の趣旨、経緯などはわからない。


奥の三基、右 庚申塔 安永4(1775)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。白カビも比較的少なく、塔全体に風化は見られない。合掌した青面金剛の頭上に蛇が三重に巻きつく。六臂は細長く、静かな表情の尊顔と相まって力感、威圧感に欠ける。像の右脇に造立年月日が刻まれていた。


足元に邪鬼、二鶏、三猿。邪鬼は貧弱で、青面金剛も踏みつけるというよりもただ乗っているだけという風情。三猿は両側が内を向く形。中央の正面を向いて座る言わ猿だけが堂々としている。


塔の右側面は無銘。左側面「奉造立青面庚申尊」その下に施主 道目木 半沢中と刻まれていた。


中央 地蔵菩薩立像 宝暦12(1762)二段の台の上、蓮台に立つお地蔵様。ここではひときわ大きい。


像の一部に白カビは見られるが、丸彫り像には珍しく、首に補修跡もなく風化の様子はうかがえない。


上の段の正面中央に「奉造立地蔵菩薩」周りに銘文が刻まれ、左のほうに武刕高麗郡 施主 笠幡村 道目木 半澤 十六人。銘の構成がちょっと変わっている。


右側面に造立年月日。左側面奥のほうに隠ヶ谷戸 恵潤近住と刻まれていた。


左 地蔵菩薩立像 天保8(1837)合掌型の地蔵菩薩像は比較的珍しい。


石塔の正面中央「奉参拝千地蔵供養塔」両脇に造立年月日。塔の右側面に奥に先祖代々菩提、続いて三つの戒名が並ぶ。左側面には武刕高麗郡笠幡村施主とあり、個人名が刻まれていた

 

八幡神社西交差点角 川越市笠幡1981西[地図]


前回見た共同墓地から北へ進むと林を抜けた先、「さつき通り」に出る。この交差点の角に地蔵塔が立っていた。ここから200mほど東に進むと、道路左奥に八幡神社がある。


雨除けの下 地蔵菩薩立像 安永9(1780)四角い台の上に石塔、さらに敷茄子、蓮台の上に地蔵菩薩像。


全身を赤い衣装に包まれていてはっきりしないが、たぶん右手に錫杖、左手に宝珠という一般的なお地蔵さまと思われる。顔は目も鼻もないのっぺらぼうで、頭部はあとから補修されたものだろう。


石塔の正面 「奉造立六道能化」続いて爲現當二世安樂也 乃至法界平等普潤。塔の右側面に造立年月日。



左側面には高麗郡笠幡村上宿 願主 落合氏、さらに二名の名前が刻まれていた。

さつき通り三差路 川越市笠幡1969[地図]


さつき通りを西に進み、鶴ヶ島市との市境の道に突き当たる三差路のところに小堂が立っている。


小堂の中には三面六臂の本格的な馬頭観音像塔と文字塔が並んでいた。


左 馬頭観音塔 天保14(1843)角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音」


塔の右側面に造立年月日。その下に世話人とあり、高麗郡笠幡村上宿から一人、その隣に高萩村とあり一人、合わせて二名の名前が刻まれている。左側面は狭く写真は撮れなかったが、願主名が刻まれているらしい。


右 馬頭観音塔 安永9(1780)駒型の石塔の正面にに三面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。馬頭はくっきり。三面の両脇の顔は横を向く。三面とも口をやや「への字」にしていて忿怒相か?ふっくらと馬口印を結び、後ろの手は矛、法輪、斧、羂索を持っていた。


足元の部分には笠幡村願主 上宿中 同村講中 道目木 半沢 隠ヶ谷戸 下宿と刻まれている。



塔の左側面「奉造立馬頭觀世音」その下に造立年月日。右側面は隙間が狭すぎて、残念ながら銘は確認できなかった。

 

千日堂墓地 川越市笠幡1629[地図]


さつき通りを東に進むと信号機のある交差点にでる。さつき通りはここまでで、ここから東はさざんか通りとなり、芳地戸方面に向かう。また、この交差点から南へ進むと、延命寺の東を通って笠幡駅近くに出る。交差点の北西の角のところに立っているのが大日堂で、その西に墓地がひろがっていた。


墓地の北東の隅、大日堂のちょうど横あたりに、ひときわ目立つ立派な観音菩薩塔が立っている。


聖観音菩薩立像 元文5(1740)大きな舟形光背にゆったりと聖観音菩薩像を浮き彫り。頭上の梵字は「キリーク」右手に宝珠を持ち、左手は与願印。光背右脇「三界萬霊有縁無縁二親爲菩提也」左脇に造立年月日。左下に施主とあり個人名が刻まれていた。


足元には大きな三猿が彫られている。左から見猿、聞か猿、言わ猿。風化もなく、ただ黙々と座る。銘は三界萬霊塔を示すが、造立年が「庚申」でもあり、この三猿を見る限り「庚申塔」と考えてもよいのだろう。


墓地の奥に進むと、ブロック塀の前に五基の石塔が南向きに並んでいた。

左から地蔵菩薩立像 元禄14(1701)丸彫りのお地蔵様。顔はつぶされ錫杖の先も欠くが、その立ち姿は堂々している。


四角い台の正面中央に「奉造立地蔵尊」右脇に造立年月日。左脇に笠幡村上宿 施主 十三人と刻まれていた。


その隣 聖観音立像 宝暦8(1758)白カビにまみれ、顔もつぶされている。光背右脇に造立年月日。左脇に「爲二世安樂也」続いて武刕高麗郡。


足元の部分、右から笠幡村 上宿 下宿 講中 十四人と刻まれていた。

3番目 普門品供養塔 天明3(1783)隅丸角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、梵字「サ」の下に「奉讀誦普門品六萬巻余供養塔」両脇に願文。
  

塔の右側面に造立年月日。左側面 笠幡村講中。続いて上宿三人、下宿十一人、田端三人、大町一人と刻まれている。

続いて大乗妙典廻国供養塔 弘化4(1847)角柱型の石塔の正面、中央に「奉納大乗妙典六十六部日本廻国供養塔」上部両脇に天下和順・日月清明。右下に豊前國、左下に願主 實道。


塔の右側面に造立年月日。左側面中央 法名 實道大徳。その下に當村兩宿。さらに世話人とあり、二名の名前が刻まれていた。豊前国出身の「實道」という僧が、行者として日本廻国を成し遂げたということかもしれない。


右端 馬頭観音塔 明治29(1896)角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。施主は個人名が刻まれていて、こちらは馬の供養塔と思われる。

 

大日堂はす向かい墓地 川越市笠幡1626西隣[地図]


大日堂のある信号交差点の南東の角、大日堂のはす向かいに墓地?があってその隅に庚申塔が立っている。この庚申塔は資料にも記載が無くTATSUさんのブログでその存在を知ることができた。



庚申塔 宝暦8(1758)隅丸角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、中央に「庚申塔」上部両脇に造立年月日。右下に笠幡村とあり個人名が刻まれていた。フェンスと網で囲まれていて近づけないため、遠くから撮った写真だけが頼りで、これ以上の銘の読み取りは難しい。

宮下橋ほとり 川越市笠幡1259南[地図]


大日堂の交差点から東は「さざんか通り」になる。道なりに東へ進むと道は緩やかに南にカーブして下ってゆき尾崎神社のあたりの信号交差点に出る。ここを直進して100mほど、北小畔川の宮下橋の手前、道路右側に石塔が立っていた。


馬頭観音塔 天明3(1783)舟形光背に三面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。この地域の定番のような馬頭観音像。馬口印を結び後ろの手は矛、法輪、斧、羂索を持つ。頭上には大きな馬頭。白カビも多い上に、顔はつぶされているようで様子ははっきりしない。足元の部分、中央に施主とあり、両脇に笠幡村 下宿と刻まれていた。


塔の左側面に造立年月日。右側面は木の枝が邪魔でうまく写真は撮れないが、「石橋補修供養攸」と刻まれている。

芳地戸自治会館向い 川越市笠幡955北


尾崎神社の近くの信号交差点から北東に進み、次の信号交差点を左折して坂道を登ってゆくと道路左手に芳地戸自治会館がある。道路を隔てた向かい、小堂の中に石塔が立っていた。


如意輪観音塔 明和7(1770)唐破風笠付き角柱型石塔の正面上部を舟形光背の形に彫りくぼめ、如意輪観音坐像を浮き彫り。四面にびっしりと銘が刻まれている。


蓮台に座る二臂の如意輪観音。細かい彫りだが風化のためか表面がやや丸くなっていた。


塔の正面、像の下に三段の銘、上から八名、中央九名、下に八名の名前、さらに下段最後にはなぜか豊田講中と刻まれている。



塔の右側面 右上に蔵ヶ谷戸〇人、的場村九人、その隣は読めない。左上に造立年月日。中央に武州高麗郡笠幡村。その左脇に願主 一名。さらに右下に供養佛願主とあり的場村□□、施主□□門と刻まれていた。さて、読めるところを読んだだけだが、笠幡村願主があり、供養佛願主もあり、さらに施主もあり、加えて右上に蔵ヶ谷戸、的場村もあり、盛りだくさんでかえって内容がいまひとつつかみきれない。



こちらは左側面。全部で六段、うち二段は人の名前か?全部読み取る根気がなかったが、30以上の村の名前が刻まれていた。



裏面にもびっしり、全部で60以上の村の名前が刻まれている。全部合わせると村の数は100近い。このように多くの村の名前が刻まれた石塔というと、まず考えられるのは石橋供養塔だろう。ただ、残念ながら今回はそのような銘は確認できなかった。本当のところはどうなのだろう?