春日町の石仏

練馬東中北交差点脇 練馬区春日町2-18


光が丘から平和台駅方面へ向かう田柄通りの「練馬北中東」交差点の西脇に庚申塔が立っていた。この四つ角は春日町全体から見ると北東の隅にあたり、すぐ東は北町、北は田柄になる。


庚申塔 元禄9(1696)笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめて、外に日月雲、中に青面金剛立像 合掌型六臂。笠が変形するほどに風化は進んでいるが、お守りするかたの心づくしのお花が供えられていて、いまだにその信仰は続いているものと思われる。


頭上に蛇の形らしい跡が残るが顔はつぶれていてはっきりしない。青面金剛は元禄期に多い形で、邪鬼ではなく磐座の上に立つ。


その下の部分、右から中田柄村、中央に施主は個人名、左に施主拾人。施主として個人名と「拾人」が並記されるのは珍しい。台の正面に比較的大きな正面向きの三猿が彫られていた。


両側面には大きな蓮の花が彫られている。左側面、蓮の彫り物の間に「奉造立庚申像一基二世安樂祈攸」さらに造立年月日が刻まれていた。

 

愛染院 練馬区春日町4-17


光が丘東大通りを南下して環八通りに出る少し手前、愛染院前交差点付近から東へ進むと愛染院の山門の前に出る。この交差点の角のブロック塀の前に小堂が立っていた。


小堂の中 庚申塔 享保16(1731)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


像の表面は風化が進み、青面金剛は目鼻立ちがはっきりしない。


足元の邪鬼と三猿も漠然としている。二鶏は邪鬼の両脇に線刻。三猿の脇には講中二十四人、願主 個人名が刻まれていた。


塔の両側面には見事な蓮が彫られている。右側面に「奉造立庚申供養二世安樂所」


塔の左側面に造立年月日。奥のほうに武州豊嶋郡上練馬邑中宮村と刻まれている。


お寺の入り口は富士街道、旧大山道に面していた。ここから100mほど参道を歩くと山門の前に出る。右側の大きな寺標の後ろに石塔が立っていた。


大乗妙典供養塔 正徳2(1712)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面「奉納大乗妙典六十六部供養」
 

塔の左側面に造立年月日。右側面には武州豊嶋郡上練馬村 願主 玄海と刻まれている。


光が丘東大通りから南下するバス通りと環八通りという二つの交通量の多い道路に囲まれているが、山門のあたりは不思議なほど落ち着いた静かな空間になっている。山門から正面に本堂が見える。


境内に入ってすぐ左に鐘楼があり、その奥に石塔が並んでいた。


左から 弘法大師千年忌供養塔 天保5(1834)大きな角柱型の石塔の正面「弘法大師一千年忌供養塔」塔の左側面に造立年月日。右側面には練月山愛染院住慶存建之と刻まれている。


その隣 小堂の中に地蔵菩薩立像 安永2(1773)保存状態は良く大きな欠損もない。


台の正面中央「奉造立地蔵菩薩」右下に施主 覚□、左下に為兩親菩提也。右側面に造立年月日が刻まれていた。


続いて地蔵菩薩坐像 天保8(1837)三段の台石に反花の付いた台を重ね、さらに塔部、四角い蓮台を積み上げた上に両ひざを立てた丸彫りの地蔵菩薩坐像。その高さは3mをゆうに越える。


頭の後ろに円形の光背を負い、左手には錫杖。声聞形の右手は幼子の声に耳を傾ける子育て地蔵を現わすものらしい。


塔部正面を彫りくぼめた中、梵字「カ」の下に二つの戒名。両側面には願文が刻まれている。


塔部裏面に造立年月日。施主は個人名。さらに當山住慶存代建之。弘法大師供養塔と同じ僧名が刻まれていた。

 


本堂から西に進み右へ曲がった先が広い墓地になっている。本堂左脇に立派な大師堂があり、そのブロック塀の前、
入口右側に11基、入口左側に8基、合わせて19基の石仏が立っていた。



右から庚申塔 寛保2(1742)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面を深く彫りくぼめて、外に日月雲、中に青面金剛立像 合掌型六臂。


やはり青面金剛の顔は削れていた。石塔の縁の部分も所々欠けていて像も全体に風化が見られる。


足元には踏みつぶされたガマガエルのような邪鬼。その下、両脇にかなりしっかりとした二鶏。三猿も顔のあたりがはっきりしない。


塔の右側面「奉供養庚申為二世安樂敬白」下部両脇に武州豊嶋郡 上練馬之内


左側面に造立年月日。下部、右側面の続きで高松村 講中三十二人と刻まれていた。


その隣 庚申塔 宝永6(1709)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


青面金剛の顔はやはりはっきりしないが、これは風化のためかもしれない。像全体に摩耗が進む。


足の両脇に二鶏。足元は邪鬼だろうが、その下の三猿ともに彫りは頼りない。


続いて聖観音菩薩立像 寛文7(1667)下の台の正面に大きく「上原氏」と刻まれていた。


舟形光背に左手に蓮を持つ与願印の聖観音菩薩立像を浮き彫り。光背両脇に渡って造立年月日。右下に妙源菩提、左下に施主敬白と刻まれている。


その奥に丸彫りの六地蔵菩薩立像 元文4(1739)像、蓮台、台とよく整う。300年近い時を経て、六体のお地蔵さまは整然と並んでいた。


形の良い卵型の頭部。円頂、白毫、福耳、ふくよかな顔立ちは温かく美しい。


六基の台の正面はほぼ同じ内容。中央に「奉造立(建立)六地蔵」右下に願主四人、左下に講中百餘。


右から3番目の台の左側面に造立年月日。その奥に武州豊嶋郡上練馬村と刻まれていた。


続いて地蔵菩薩立像 元禄10(1697)丸彫りにもかかわらず大きな欠損は見られず、錫杖、宝珠ともきれいに残っている。八頭身でバランスもよく眉目秀麗。


蓮台の下、分厚い敷茄子の正面「奉造立地蔵菩薩 尊像二世安樂所」右側に造立年月日。左側に武州豊嶋郡 上練馬之内高松村 同行廿八人と刻まれていた。


大師堂入口近く、地蔵菩薩立像 享保12(1727)多少の白カビは見られるが欠損は無く保存状態はいい。体のわりに頭が大きく児童のような体形。重厚な蓮台の上に乗る。


塔部正面を浅く彫りくぼめた中、武州豊嶋郡 上練馬邑上田柄邑、ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら

今日は愛染院の石仏の3回目になります。

愛染院 練馬区春日町4-17


大師堂のブロック塀の前、入口左側には八基の石塔が並んでいる。


右から地蔵菩薩立像 昭和49(1974)つい40年ほど前に造立された丸彫りの地蔵菩薩像。頭頂部が扁平でユニークな顔立ち。彫りは丁寧で美しい。


四角い蓮台の下、台の正面に「延命地蔵」右側面に故郷を想う歌が刻まれ、裏面に造立年月日。施主は個人名が刻まれていた。


その隣、自然石の上に立つこの石仏の正体が難しい。石にも像にも銘が見当たらず、いろいろ探してやっと楕円形の光背の裏に文字らしきものを見つけたが、彫りが薄くなっていて判読はできなかった。はじめて見たときには観音様に見えた。しかし、右手は与願印かと思うと、なにか持物を握っている。左手は施無畏印かと思うと阿弥陀如来のように親指と中指で輪を作っている。いったいどう考えたらいいのだろう?


右手の持物はなにか?あれこれ考えてみたが口を下にした水瓶のように思えてきた。水瓶(すいびょう)についてあれこれ調べてみると「不思議な甘露水が入っていて、ふりかけると穢れが消えるとされる。観音菩薩などが持つ。」という記述があった。なるほど、口を下にして水瓶を持ち甘露水をふりかけるお姿を現したものか。凛とした厳しい顔立ちだが、華やかな衣装と豪華な胸飾りは観音様にふさわしい。おそらく江戸時代の造立と思われるが確証はない。


続いて四基の丸彫りの地蔵菩薩立像。六地蔵のうちの四基と考えられる。右から2番目のお地蔵様だけ様子が違うようだが、セメントで前面を補修されたもので、像、蓮台、台ともに四基の石塔はよく似通っている。


台の銘はいずれも正面のみ。右から見てみよう。1番目の台、「地蔵菩薩」に続く「若聞名号」は願文の初めの文句で「もし、名号をきけば、」で、そのあとにその功徳についてふれるものだが、側面にその続きはない。他の三基にもそれらしいものはなく、失われた二基の地蔵菩薩塔の台に願文の続きが刻まれていたのかもしれない。


2番目の台、中央に武州豊嶋郡 上練馬高松村。下部両脇に「念佛講中」


3番目には享保19(1734)の紀年銘が刻まれていた。


左端 中央に「念佛地蔵」両脇に造立年月日。こちらは享保17(1732)となっている。六地蔵では何年かに渡って建て加えるケースがあり、これもその一例と思われる。愛染院の石仏は、前回の二基の地蔵像に見られるように、とても保存状態が良く大事に扱われてきたものが多いように思われる。この四体のお地蔵様が六地蔵の一部とすると、残りの二基はどこへ行ってしまったのだろう?


小さなサイズの板碑を挟んで左端に馬頭観音塔 大正5(1916)角柱型の石塔の正面に「馬頭觀世音」


塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日。その下に施主は個人名が刻まれていた。願主 個人名、講中四拾六人。最後に造立年月日が刻まれていた。

 


大師堂の前を西に歩いた突き当りに二基の地蔵菩薩像が並んでいた。ここを右に曲がった先が墓地になる。


左 地蔵菩薩立像 延宝9(1681)舟形光背は一部を欠くが美しい形をとどめる。丸顔で穏やかな笑みを浮かべるお地蔵様。錫杖、宝珠、衲衣などの彫りも細かく丁寧。


多少白カビも見られるが銘は読み取れる。光背左脇に造立年月日。右脇には「奉造立地蔵菩薩尊像為二世安樂」続いて結衆敬白と刻まれていた。


右 地蔵菩薩立像 宝永6(1709)こちらは丸彫りのお地蔵様。多少の風化は見られるものの大きな欠損はなく、重厚な蓮台の上に悠然と佇む。


分厚い敷茄子にぐるりと銘が刻まれていた。右のほうから「卽得解脱一弾指間皈依」よくはわからないが「帰依すればあっという間に解脱できる」くらいの意味か。


台の正面中央に武州豊嶋郡上練馬村、右脇に願主個人名、左脇に講中四十人。さらにその両脇に造立年月日が刻まれている。


二基の地蔵像のところから右に曲がって墓地に向かう。すぐ右手のブロック塀のところに丸彫りの六地蔵菩薩立像 明和5(1768)が並んでいた。


右から3遍目のお地蔵様は蓮台を欠くために小さく見えるが、像の様子と台の銘は他のお地蔵様と変わらない。


六基のうち二基の台には宝暦から明和年間の命日と戒名が刻まれていた。


残りの四基はいずれも正面中央に大きな字で「奉建立六地蔵」左から2番目の台だけ、その右脇に造立年月日、左脇に武州豊嶋郡上練馬村と刻まれていた。さらにこの台の左側面には中野宮講中二拾人とあり、続けて願主名が刻まれている。


しばらく奥に進むと墓地の入り口右脇に大きな無縁塔があった。頂上には自然石に「供養塔」と刻まれた石塔が立ち、おびただしい数の石仏がその周りに集められている。


その南面、中ほどに丸彫りの六地蔵菩薩立像。銘は確認できず詳細は不明。とぼけた顔立ちは江戸時代後期か?たくさんの石仏の中で丸彫りの石仏はこの六基だけで、あとは舟形光背型の石仏か、角柱型の石塔になる。


その下に五基の大型の石塔が並ぶ。左から観音菩薩立像 享保3(1718)薬壺のようなものを持つが頭上の梵字が「サ」のように見え衣装も観音様らしく思える。あるいは薬師如来立像か。その隣は「奉再建六地蔵尊 施餓鬼供養塔」上の六地蔵の供養塔か。中央は阿弥陀如来立像 宝暦13(1763)、続いて大乗妙典六十六部供養塔 、右端は地蔵菩薩立像 元禄7(1694)五基の石塔にあまり関連性は無く、同じようなサイズのものを集めただけなのかもしれない。


上三段に舟形光背型の石仏、その下に角柱型の石塔が並ぶ。江戸時代初期のものが多くひとつづつ丁寧に見てゆけばいろいろな石仏を見ることができるだろう。今日は数回訪ねた中で目についたものだけでも紹介したい。


西面に福々しいお顔の阿弥陀如来坐像 正徳3(1713)頭上の梵字「ア」は胎蔵界大日如来を表すが、「仏」全体を表すものでもあり、明らかに阿弥陀定印を結ぶこの石像は阿弥陀如来像とすべきだろう。


全体に地蔵菩薩、聖観音菩薩、如意輪観音像が多い。こちらは東面にあった二臂の如意輪観音菩薩坐像 正徳3(1713)素朴な造形が味わい深い。


北面に納骨堂の扉があった。その上に二基の石仏が並んでいる。


金剛界大日如来坐像 延宝9(1681)智拳印を結び泰然と坐す。


その隣 准胝観音菩薩立像 正徳3(1713)准胝観音像は六観音塔で見ることは多いが、独尊はあまり見かけず貴重。遠くからの撮影なのではっきりしないが八臂像か?豊満温和な中にどこか憂いを秘めたまなざしが印象的だ。

 

春日町青少年館庭 練馬区春日町4-16


愛染院のすぐ南にある春日町青少年館の庭に二基の石塔が立っていた。写真後ろ、青年館の塀に解説板が設けられている。


左 馬頭観音立像 安永7(1778)駒型の石塔の正面に二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。石塔全体が風化のために傷んでいた。顔のあたりもすっかり摩耗して顔立ちははっきりしないが頭上にはくっきりと馬頭が確認できる。左脇に造立年月日。右脇に豊嶋郡練馬之内 海老ヶ谷戸村。足元に願主 若者中と刻まれている。


塔の左側面 左ハぞうしかや道。右側面には 右ハ中村南蔵院道と刻まれていた。


奥に庚申塔 享保2(1717)こちらも駒型の石塔。正面 線刻された日月の下に青面金剛立像 合掌型六臂。像の表面は摩耗し、青面金剛の顔はつぶれている。右脇に「奉造立庚申二世安樂所」左脇に中宮村講中十三人と刻まれていた。


青面金剛は磐座の上に立つ。邪鬼・二鶏は見当たらず、小太りの三猿だけが彫られていた。

富士街道高松六丁目西交差点西路傍 練馬区春日町6-12


富士街道、愛染院前から500mほど西の春日町六丁目西交差点のすぐ西の住宅の塀の隅に小堂が立っていた。


小堂の中 地蔵菩薩立像 安永3(1774)舟形光背に錫杖。宝珠を手にした地蔵菩薩立像を浮き彫り。風化が著しく進み像は溶け始めている。真ん丸なお顔は目も口も鼻もないのっぺらぼう。青面金剛の場合は人為的なケースが多いが、お地蔵様でここまでの状態は「塩地蔵」以外にはあまり見ない。光背右脇に造立年月日。左脇に武州練馬村とあり、願主名が刻まれていた。

愛染院東環八通り歩道 練馬区春日町2-9


愛染院の入り口から富士街道を東に進むと環八通りに合流する。そのまま平和台方面に向かい始めての信号交差点の四つ角、歩道に小堂が立っていた。右端には像を欠く台石があったが銘は読み取れない。


左端 地蔵菩薩立像 造立年月日不明。厚みのある蓮台に立つ丸彫りのお地蔵様は顔はつぶれているが錫杖・宝珠ともに健在で堂々たる体躯をしている。台の正面に講中五十二人とあり、大きな講といえるだろう。右側面に二世祈攸。左側面と裏面は空間に全く余裕が無く銘を確認することができないが、どちらかに紀年銘が刻まれているのかもしれない。


中央 地蔵菩薩立像。こちらはかなり新しい。左手に幼子を抱え、裾にもふたりの幼児がすがりつく。台の正面に水子地蔵尊と刻まれていた。


右 大乗妙典供養塔 安永3(1774)上部両隅を丸めた角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中 阿弥陀三尊種子の下「奉納大乗妙典六十六部供養塔」右脇に天下泰平、左脇に國土安全。彫りは薄い。


塔の右側面に造立年月日。左側面には武州豊嶋郡上練馬村、続いて願主名が刻まれている。

 

練馬東中学校北東十字路 練馬区春日町1-32


環八通り本寿院入口交差点から南へ向かい、300mほど先の信号交差点を右折して少し行くと、左手の角地、コンクリートの壁の前に庚申塔が立っていた。


庚申塔 明和3(1766)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。かなりの部分が白カビに覆われている。


日月の間に「奉造立」続きは像の右脇「庚申尊像」正面には他に銘は見当たらない。


足元に漠然とした邪鬼。二鶏、三猿を探したが、このあたりは全体に摩耗していてはっきりしなかった。


塔の右側面に造立年。続いて再興講中 願主十六人と刻まれている。左側面は隙間が狭くて無理してのぞいてもその一部しか見えない。資料によると これより左中村ミち、さらに元禄16年(1703)の紀年銘が刻まれているらしい。元禄16年創建、明和3年再建ということになるだろう。

春日神社 練馬区春日町3-2


都営大江戸線練馬春日町駅近くの春日町交番西交差点から南へ向かう道は、やがて緩やかに左にカーブして東に進み、またその先で右にカーブして南下、豊島園の東を通って西武池袋線練馬駅方面に至る。その途中、練馬農協前交差点の少し先を右に折れると春日神社の拝殿の横に出る。拝殿の西、大きな二本の木の近くに庚申塔が立っていた。


庚申塔 宝永6(1709)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。カビなども少なく、像の彫りも銘もはっきりとしている。


像の右脇に「奉造立庚申供養二世安全祈所 敬白」その両脇に造立年月日。像の左脇には武州豊嶋郡上練馬海老ヶ谷戸村結衆四十八人、さらに続けて内二十人女と刻まれていた。


青面金剛を背に乗せた邪鬼は磐座の上に寝そべる。下部に丸みのある三猿。磐座と三猿の間の部分に二鶏が薄く線刻されていた。

寿福寺 練馬区春日町3-2


春日神社のすぐ東に寿福寺がある。お寺の入口は東の路地のほうになるが、正面の本堂の裏手が神社の敷地で、お寺と神社の間はブロック塀で仕切られていた。


境内に入ってすぐ左側に墓地の門扉がある。墓地に入ると右手に二基の石仏が並んでいた。左 地蔵菩薩坐像は台の正面に願文が刻まれているが、側面に隙間が無く銘は確認できない。


右 庚申塔 宝永4(1707)舟形光背に日月雲 青面金剛立像 索・ショケラ持ち六臂。白カビが多い。


大きな日月の下、青面金剛は右手に剣のかわりに羂索を持つ。光背右脇「奉造立庚申石像二世祈攸」左脇に造立年月日。その下に結衆十六人。


足の両脇に大きな二鶏。特に雄鶏は見事。ふんどしをした邪鬼が首をかしげて横たわり、その下に三猿を彫る。右下に牛込築地、左下に石工の名前が刻まれていた。


墓地の一番西の奥に境内社があり、それに向き合うように二基の石塔が並んでいる。右の石塔は大正5年造立の敷石供養塔。後ろの塀の向こうは春日神社の境内になる。


庚申塔 延宝3(1675)鋭角的な舟形の光背の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。カビも少なく彫りは鮮明で時代を感じさせない。


しかめ面をした青面金剛の頭上から顔の両脇にかけて「奉造立 庚申供養石像 為二世安樂也」光背右脇に造立年月日。左脇に武州豊嶋郡上練馬江海老ヶ谷戸村。


青面金剛の足元、磐座の中に能面のような邪鬼の顔が彫られている。その下の二鶏は鳩のような形で比較的厚く浮き彫り。三猿は正面向きに座り、下部全体はシンメトリックな構成。三猿の左に結衆十三人、右に敬白と刻まれていた。