桜区町谷

 

慈観寺 桜区町谷1-14[地図]


新大宮バイパスの町谷交差点から東へ向かい、最初の交差点を右折、路地を進んだ先に慈観寺の入口がある。門扉の咲、左脇に六地蔵の小堂が立っているが、こちらの六地蔵はかなり新しいものだった。


入口右脇、雨除けの下に笠付きの石幢が立っている。


六地蔵塔 万治2.上部は六面に六地蔵菩薩立像を浮き彫り。その下は円柱形でぐるっと銘が刻まれている。


銘は薄く読みにくい。やや左にずれた位置に造立年月日。さらに町谷村念佛講衆為二世安樂修造之也。念仏講によって建てられた「念仏供養塔」周りに多くの講衆の名前が刻まれていた。


墓地の北西の一角、ブロック塀の前に石塔が並んでいる。

南向きの三基のうち左端 普門品供養塔 寛政7(1795)大きな四角い台の上、角柱型の石塔の正面、梵字「サ」の下に「奉讀誦普門品一万巻供養塔」台の正面に多くの人の名前が刻まれていた。


塔の右側面に造立年月日。左側面に慈観寺住法印辯融。願主だろうか。


台の両側面にも名前が刻まれていた。三面ともに十数名、合わせると50名近い。慈観寺の住職の呼びかけに応えて町谷村の多くの人たちがこの供養塔の造立に協力したのだろう。


入口の左側のブロック塀の中に石仏が祀られていた。


庚申塔 元禄13(1700)舟形光背に青面金剛立像 合掌型六臂。


風化のために彫りは甘くなっているが、顔の表情はしっかり。光背両脇に造立年月日。


足元には邪鬼・二鶏は見当たらず、正面向きの三猿だけが彫られていた。

慈観寺西路傍 桜区町谷1-16[地図]


慈観寺の南の道を西に進む。新大宮バイパスに出る手前、道路右側に小堂が立っていた。


庚申塔 安永6(1777)四角い台の上、舟形光背に日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。この庚申塔は今回慈観寺の取材の際に初めて見かけたもので、酒井さんの「郷土の石佛」にも載っていなかった。小堂もかなり新しく、ここの地主さんの屋敷の中にあったものをこちらに移したものだろう。


三眼・怒髪の青面金剛。ところどころカビが見られたり、セメントで補修した跡が残っている。


足の両脇に二鶏。足元に異相の邪鬼がうずくまる。その下に両脇が内向きに座る構図の三猿が彫られていた。


下の台の正面、右に町谷村施主とあり、井原氏の名前があり、左のほうにも施主として数人の名前が刻まれている。


庚申塔の左に二基の石碑。左は昭和46年、右は平成17年にこの庚申塔の補修を行ったときにたてられたものだった。

 

薬師堂 桜区町谷3-13[地図]


新大宮バイパスの町谷交差点の南西200mほど路地の中に薬師堂の入口がある。門扉の向こう、正面に薬師堂、参道左脇に小堂が立っていた。


小堂の中 丸彫りの六地蔵菩薩立像。銘は確認できなかったが新しいもののようだ。円柱型の石を使っていて、まるでこけしのようなお地蔵様、丸いお顔も愛嬌があってかわいらしい。


六地蔵の小堂の奥に石塔が一列に並んでいる。そのなかのいくつかは墓石だった。



右から3番目 六地蔵石幢 万治2(1659)宝珠を乗せた笠付きの石幢。上のほうは六面に六体の地蔵菩薩立像を浮き彫り。下部は円柱型。全体に白カビが多く、銘は薄くなっていて読みにくい。


円柱形の下部、正面からやや左にずれた位置に造立年月日。その横に「町谷村念佛講衆爲二世安樂修造之也」ぐるりと周りに多くの人の名前が刻まれていた・・・これは前回紹介した慈観寺の六地蔵石幢と全く同じ銘である。今はバイパスで分けられてしまって横断できず遠く感じるが、直線距離を考えると慈観寺とこの薬師堂はごく近く、この二つの石塔は同じ村の講によって造立された兄弟塔と思われる。


右端 如意輪観音塔 寛文3(1663)四角い台の上、大きな舟形光背に二臂の如意輪観音菩薩坐像を浮き彫り。全高180cmほどの重量感あふれる本格的な坐像で、これだけ立派な如意輪観音像はなかなかない・・・・と言いたいところだが、実は後で見ていただくが、すぐ西の道場3丁目の金剛寺、北の栄和の重円寺にもほぼ同じような規模の立派な如意輪観音坐像があって、造立年も延宝4(1677)、寛文12(1672)とやはり同時期と言ってよい。同じ地域に相次いで造立された三基の如意輪観音塔、見比べてみるのも面白いだろう。


尊顔は穏やかで優しく、像全体もふくよかで女性的なイメージ。光背右下に爲現當來世安樂。左下に造立年月日。続いて奉彫之と刻まれていた。


如意輪観音像の下の部分、薄くなってしまって正確には読めないが10名ほどの名前が刻まれている。


参道右脇の小堂の中に大きな丸彫りの地蔵菩薩塔 元文4(1739)2mを超す重制の地蔵塔は、やはり享保の次の元文ならではと納得できる。像は補修跡もなく美しい。


角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、中央に「與野領町谷邑講中」両脇に造立年月日。


塔の左側面に願主 3名の名前が刻まれていた。


薬師堂の左脇、墓地の入口に宝篋印塔が立っている。長い相輪と、隅飾付の笠を持つ。


宝篋印塔 享保16(1731)塔身四面に梵字。基礎の右側面に造立年月日が刻まれていた。

薬師堂東路傍 桜区町谷3-6[地図]


薬師堂の南の道を東に向かい、バイアスに出るすぐ手前を左折、狭い路地を北へ進むと、道路左側の住宅の塀際にひっそりと石塔が立っていた、


馬頭観音塔 大正11(1922)駒型の石塔の正面「馬頭觀世音」


塔の左側面に造立年月日。願主は個人名が刻まれている。

 

路傍の石仏 桜区町谷3-17 [地図]

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町谷三丁目、住宅の脇に二体の石仏が並んでいる。左 庚申塔 万延元年(1860)角柱型の石塔の正面「庚申塔」右側面には町谷村女人講連。 西  はやせと刻まれていて道標になっている。

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右 如意輪観音坐像 元禄4(1691)個人の戒名が刻まれていて墓石だが、300年以上の時を越えて今ここにある不思議。それを目の前にすることができるのも縁というものだろうか。

 

さて、こちらの二基の石仏は今はみることができません。上の写真は2013年の取材でしたが、その後再訪したときは・・・

 

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影も形もなく愕然としたものです。どこへ行ってしまったのでしょうか?