錦の石仏

金乗院 練馬区錦2-4-28


川越街道の練馬北町陸橋交差点から池袋方面に向かい、次の信号交差点を右折して狭い道を進んでゆくと、金乗院の入り口の前に出る。朝早く、6時半ころ伺うことが多いのだが、いつもご住職と奥様が忙しそうにお掃除をされていた。手入れが行き届いた境内はすがすがしく気持ちが良い。写真中央、山門の向こうに大きなイチョウの木が見える。


山門をくぐると参道の左側、イチョウの大木の前に宝篋印塔と舟形の石塔が立っていた。


宝篋印塔 享保12(1727)屋根型の笠を持つ。塔身部四面に梵字。基礎には銘が無い。


二段の上のほうの台、正面と左側面に願文。裏面に江戸石工の名前が刻まれているのは珍しい。下の台の正面中央に萬人講中と刻まれていた。


イチョウの大木を背に一石六地蔵塔 明暦2(1656)大きく美しい光背に六体の地蔵菩薩立像を横一列に浮き彫り。


上部、明快な日月雲を彫り、梵字「カ」の下「奉新蔵立六地蔵大菩薩二世安樂所」その右脇に武州豊島郡下練馬本村御月待衆。月待信仰との習合仏になる。左脇に造立年月日。六体の地蔵像はバランスが良く彫りも丁寧で美しい。


六地蔵の下の部分に月待衆16人の名前を刻み、さらに蕾から開花まで様々な蓮の花を彫る。全体に彫りも刻銘も鮮明で素晴らしく、江戸時代初期を代表する石仏と言えるだろう。下の台の中央に「講中四十有三人」と見えるが、左脇の紀年銘は正確ではないが享保?年八月二十八日と読める。この部分は後から補われたものかもしれない。


本堂の左、墓地の入り口まで多くの石塔が並んでいた。


右から不動明王立像。紀年銘が無く詳細は不明。炎の光背を背に剣と羂索を持ち、心持ち左を前に出して佇む。越谷のほうで多く見かけた成田山不動明王とはかなり趣が違う。


その隣 地蔵菩薩立像 明和5(1768)丸彫りの像は1mほど。蓮台、敷茄子、塔部、台石と重なると2mほどになり、仏様を仰ぎ見るという信仰上の姿勢としては、これくらいがちょうどよい高さかもしれない


塔部正面中央、梵字「カ」の下に「奉造立地蔵尊」両脇に造立年月日。右側面に阿闍梨教伝、両脇に紀年銘は宝暦元年、これは命日だろう。左側面には武州豊嶋郡下練馬本村 願主 講中と刻まれていた。


続いて横長の自然石の上に舟形光背型の地蔵菩薩立像 昭和37(1962)顔は四角く鼻が座り、愛嬌がある。


続いて丸彫り合掌型の地蔵菩薩立像 昭和48(1973)足元は簡素で石塔の上にほぼ直に載っている。塔の正面 梵字「ア」の下に「三界萬霊供養」裏面に造立年月日。


東向きに立つ石仏の左端、地蔵菩薩坐像 安政4(1857)上部隅が丸い厚みのある石塔の正面に錫杖・宝珠を持ち左足を垂らした地蔵菩薩を浮き彫り。細長い顔に豊かな耳を持ち生き生きとした表情が印象的。正面下部に「永應」右側面に造立年月日。左側面に蓮沼村の石工名が刻まれていた。


墓地の入り口両脇に三基の石仏。入り口右 観音菩薩坐像を載せた巡礼供養塔 文化8(1811)頭の後ろに円形の光背を持ち、静かに合掌する丸彫りの観音菩薩が美しい。角柱型の塔の正面、上部に阿弥陀三尊種子。その下に「奉供養月山 湯殿山 羽黒山 秩父 西國 坂東百番 為二世安樂也」出羽三山信仰と観音信仰を結んでの造立である。塔の左側面に造立年月日。続いて上板橋村と刻まれていた。


下の台の正面と両側面に、小竹、江古田、長崎など、近隣各地から合わせて20名ほどの人たちの名前が刻まれている。代参講だろうか。


入口左脇 聖観音菩薩坐像を載せた巡礼供養塔 弘化2(1845)入口右の供養塔とよく似ている。やはり円形の頭光背、左手に蓮華、右手施無畏印の聖観音菩薩。角柱型の石塔の正面「奉順礼 月山 湯殿山 羽黒山 秩父 西國 坂東 新四國 八拾八ヶ所 百八拾八ヶ所供養塔」出羽三山、観音霊場百番、さらに新四国霊場八十八ヶ所を含めての供養塔である。塔の右側面に造立年月日。左側面には南無大師遍照金剛、法界平等利益と刻まれていた。


下の台の正面、上板橋村小竹とあり続いて願主は個人名。さらに「二世為安樂也」と刻まれている。これだけの立派な石塔が個人仏とは大変な経済力というべきだろう。


近寄ってみると石塔の正面下部両脇に二つの墓石が線刻されていて、文久2年と嘉永3年の命日が刻まれていた。いずれも右側面にあった弘化2年よりあとになり、その文字の書体が明らかに異なっていることからも、この部分は後刻されたものと考えられる。


その隣 地蔵菩薩立像 安永8(1779)丸顔に厚い唇が突き出し、地蔵菩薩としては異相と言える。銘は薄く、はなはだ読みにくい。台の正面「奉造立地蔵尊回國供養」両脇に天下泰平 國土安全。


塔の右側面の銘は読み取れない。左側面には薄く造立年月日。続いて武州下練馬村 施主は個人名が刻まれていた。


本堂の左側の墓地の入口から入ると、墓地は本堂の裏のほうまで、本堂を取り囲むように続いている。一般の墓地とは別に、本堂のすぐ左脇におびただしい数の石仏が集められていた。後ろのほうに大型の石仏が並ぶが、折り重なるように前に石仏が立っているために近づくことはできなかった。遠目にも江戸時代の古い石仏が見えるが全体が見えるものは少ない。


最後列の中央付近「為有縁無縁一切精霊菩提也」と刻まれた白い塔の左、金剛界大日如来立像 明和5(1768)智拳印を結ぶ金剛界大日如来だが、頭上には梵字「バン」ではなく「ア」が刻まれていた。大きな舟形光背に浮き彫りされた大日如来は温かい微笑みを浮かべている。


その右 阿弥陀如来立像 明和元年(1764)隣の大日如来同様、この時期のものとしてはかなり大きな光背を持ち、ふくよかで端正な顔立ちが魅力的。その他にも比較的大きな宝暦年間の聖観音菩薩像などがいくつか並んでいたが条件が悪くあまりいい写真は撮れなかった。いずれ機会をみて再挑戦してみたい。


おびただしい数の無縁仏が並ぶひな壇?の奥に、別に地蔵菩薩塔が並んでいた。


左 地蔵菩薩立像 明和6(1769)カビで真っ白になった光背の上部に大きく梵字「カ」を刻む。丸顔のお地蔵さまはカビにおおわれているものの大きな欠損もないようだ。塔の左側面に造立年月日が刻まれている。


右 一石三地蔵塔 寛政5(1793)四角い石塔の正面に三態の地蔵菩薩像を浮き彫り。頭上にはそれぞれの種子を持ち、二基で六地蔵となるものと思われるが、対になるべきもう一つの石塔は見つからない。


塔の左側面に造立年月日。右側面には念佛講中とあり、その下に願主 善心と刻まれていた。


本堂の裏手に回ると墓地の境界の小高いところにたくさんの無縁仏が集められている。その先を左に折れ、墓地へ向かう石の階段を登ってゆくと階段右脇に石舟形光背型の石仏が並んでいた。


右奥に地蔵菩薩立像 寛文11(1671)小さな舟形光背、梵字「イー」の下に合掌型の地蔵菩薩立像を浮き彫り。梵字「イー」から考えると、今は独尊だが、もともとは六地蔵のうちの一体と考えられる。



階段脇 下から胎蔵界大日如来坐像 延宝5(1677)定印を結ぶ。ここに並ぶのはいずれも個人の墓石らしい。


その後ろ 聖観音菩薩立像 延宝8(1680)


一番上に聖観音菩薩立像 延宝7(1679)ふくよかで慈母のようなたたずまい。


階段を登り切って墓地に入ると、右奥の一角に「阿弥陀堂墓地移転記念碑」があり、その脇に大小二基のお地蔵さまが立っていた。


ちょっとうつむき加減の地蔵菩薩立像。蓮台の下の塔部正面に文字らしきものが見えるが読み取れない。下の台の上の面にたくさんの「くぼみ穴」が穿たれていて、江戸時代中期あたりのものと思われる。


台の正面には20名ほどの名前が刻まれていた。講中仏だと思われるのだが詳細が分からないのは残念だ。


延宝2年の五輪塔を挟んでやや小さな地蔵菩薩立像。塔の正面に「三界萬霊」資料には享保19(1734)造立とあるが両側面の銘は彫りが薄く容易には読み取れない。実はこの銘をなんとか読みたいと思い、きょうも朝早く墓地まで行ってみたら、たまたま近くでご住職が掃除をされていて、事情をお話しすると、水をかければ文字が見えてくるかもしれないといってくださった。お言葉に甘えて水場まで戻って水を汲んできてかけてみた。塔の右側面には戒名が見えてきたが、左側面はなかなかうまく見えてこない。それでもなんとかうっすらと見えてきたのは天明三?享保19年の紀年銘はどこなのだろう?


墓地の西側の突き当り、壁の前に地蔵菩薩立像 文化3(1806)笠付きの角柱型の石塔。蓮台、敷茄子も石塔に合わせて四角く作られているのは珍しい。下の台は二段になっているが、石の色から考えると下の台は後から補われたものかもしれない。


塔の正面を彫りくぼめて中に舟形の光背を表し、長い錫杖と宝珠を手に蓮台の上に立つ地蔵菩薩立像を浮き彫り。錫杖に絡まるように衣装が斜めに流れて、ここだけ風が吹いているかのようだ。


二段の台の上のほうの台の正面 風化のために読みにくいが、右側に「光明真言 講中」左側に願主だろうか、相原氏と田中氏の名前が刻まれている。


塔の左側面に造立年月日。右側面には「奉造立地蔵尊為二世安樂也」両脇に乃至法界 平等利益と刻まれていた。

 

圓明院 練馬区錦1-19-25


金乗院の100mほど東には、川越街道のほうから南北に長い遊歩道が続いていて、この遊歩道沿いに南へ200mほど進むと道路左側に圓明院の入り口があった。山門の両側に多くの石塔が並んでいる。


山門右側には大小様々な種類の石塔が立っていた。


右から 寺標 明治43(1910)角柱型の石塔の正面、大きな字で「弘法大師」右脇に小さく豊島八十八ヶ所第廿七番。左側面は32番金乗院、右側面は58番荘厳寺への里程標になっていた。


一つ置いて左に庚申塔 享保7(1722)駒型の石塔の正面 梵字「ウン」の下、日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


所々傷んでいて、特に顔は完全につぶされているようだ。右脇に「奉造立青面金剛尊像諸願成就所」左脇に造立年月日。



足元の邪鬼は正面向き、頭と腕だけの上半身型で小さめ。その両脇に二鶏を彫る。雄鶏はかなりしっかり、雌鶏は小さい。下部には存在感のある三猿。三猿の下の部分、中央に武州豊島郡下練馬村、右に講親とあり個人名、左には講中十五人と刻まれている。


塔の両側面には道標が刻まれるがカビが多く読みにくい。左側面 左ハ たかたみち、右側面には右 ふじミちだろう。



その隣 角柱型の石塔の上に馬頭観音坐像 寛政6(1794)。舟形光背の上にさらに円形の頭光背を重ねるのはユニーク。


三面八臂忿怒相、馬口印を結ぶ馬頭観世音。逆立つ髪の中に馬頭もくっきりと彫られている。ちょうど首のあたりに断裂跡が残っていた。


塔の正面中央に武州豊嶋郡下練馬村。両脇に造立年月日。下部両脇に今神講中 二拾六人。塔の左側面には西 ふじみち、右側面には北 とだわたし道と刻まれている。


続いて 阿弥陀如来立像。丸彫りだが欠損はなく、来迎印の阿弥陀如来像は端正な顔立ちで美しい。膝下のあたりに扇状の光背。これは後からつけられたものではなく阿弥陀如来像とともに一石から彫りだされたものである。その光背の両脇に延宝7(1679)と元禄12(1699)の紀年銘が見える。戒名は見当たらないのだが命日だろうか。


その隣 地蔵菩薩立像 天明5(1785)丸彫りの延命地蔵。像の下に蓮台、敷茄子、反花と続きその下に角柱型の石塔、さらにまた蓮台、敷茄子、反花で、像自体は1mくらいだが全体では2m近くなり、ひときわ高くそびえたっていた。


錫杖、宝珠も健在。衲衣の模様もきれいに残っている。


塔の正面には造立年月日が刻まれていた。今回は昭和57年発行の「練馬の石仏」(練馬区教育委員会)を参考資料としているが、その中で氷川台4-58-8にあるとされる延命地蔵がどうしても見つからなかった。写真を整理していて最近やっと気が付いたのだが、この地蔵菩薩塔がそれで、どうやら宅地化のためだろうか、その後ここ圓明院に移動されたものらしい。


左端 石灯籠供養塔 元文2(1737)笠付きの角柱型の石塔の正面「奉納石灯籠 奉念佛講中十人」両脇に地蔵尊 御佛前。右下に武州豊嶋郡、左下に下練馬村。両側面に造立年月日が刻まれている。


その後ろ 馬頭観音塔 大正2(1913)角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音」塔の右側面に造立年月日。左側面には施主とあり個人名が刻まれていた。

 


入口の左側、塀の前に四基の石塔が並んでいる。石塔の前には新しい花が供えられていた。


左 地蔵菩薩立像 明治25(1892)上部が丸くなった石塔の正面に錫杖・宝珠を持つ地蔵菩薩像を浮き彫り。明治の新しいお地蔵様だが、「血之道地蔵」と名付けられ、婦人病、いぼ取りに功徳があると多くの人たちの信仰を受けてきたという。


塔の左側面に造立年月日。右側面に「血之道地蔵」と刻まれていた。


その隣 地蔵菩薩立像 享保3(1718)丸彫りの延命地蔵だが、欠損がなくカビも目立たない。じっくり見てみたが首のあたりも補修跡が無く、ほぼ完全な形で造立時の形をとどめているようだ。


蓮台の下、台の正面中央「奉造立地蔵菩薩尊像」その右脇に信心歸依講中?左脇に為現當二世安樂。さらに両端に願主 圓明院 法師参□。


台の右側面 武州豊嶋郡下練馬村、左側面に講中 百三十六人!どうみても数字は136に見えるのだが、そこまで大きな講を今まで見たことがない。読み間違いか?続いて造立年月日が刻まれていた。


3番目 地蔵菩薩立像 明和元年(1764)こちらも丸彫りの延命地蔵。宝珠が欠け、首には補修跡があり、顔にも鋭い傷が見える。


蓮台の下の塔部右側面に童子の戒名。正面を彫りくぼめた中、梵字「カ」の下に「奉造立地蔵菩薩」両脇に造立年月日。左側面には武州豊嶌郡下練馬村 今神講中とあり、願主は個人名が刻まれていた。



右端 大乗妙典六十六部供養塔 安永5(1776)笠付き角柱型の石塔。下の新しい台は本来のものではなく、昭和57年、上の石塔の施主の子孫によって奉納されたものらしい。


塔の正面を彫りくぼめた中、上部に阿弥陀三尊種子の下に弘法大師坐像を浮き彫り。右脇に天下泰平、左脇に國土安全。


下部中央「奉納大乗妙典六十六部現當二世祈所」両脇に造立年月日。
 

塔の左側面に 武州豊嶋郡下練馬村、行者宣春 加藤源四郎と刻まれている。下の台の右側面にこの石仏の由来について書かれたプレートが埋め込まれていた。それによると、この石仏の施主加藤源四郎は平素から弘法大師に深く帰依し、一念発起して大師霊場四国八十八ヶ所巡拝を決意、その出発に先立ち、行者宣春と共にこの大師尊像の石仏を建立し、その巡拝の途上惜しくも亡くなられたとのことだ。現在のように交通の発達していなかった時代に、やはりこのような巡拝の旅は命がけだったのだろう。これまでにも多くの順礼供養塔、廻国供養塔、六十六部供養塔を見てきたが、その巡礼の旅はいずれも容易なものではなかったのだろうと改めて考えさせられた。合掌。


墓地の奥には聖観音立像を載せ、正面に「三界萬霊」と刻まれた大きな新しい石塔が立っていた。その右手前にひときわ大きな舟形光背を持つ石仏が見える。


胎蔵界大日如来坐像。大きく美しい舟形光背の上部中央に、定印を結びゆったりと座る大日如来像を浮き彫り。彫りは細かく丁寧で瑞々しく優美。下部には二基の五輪塔を浮き彫り。いずれも延宝2(1674)の命日を持つ二つの戒名が刻まれている。塔自体の造立年を断定できるような銘はないが、光背の形、石質などから延宝~貞享あたりだろうか。金乗院の一石六地蔵塔同様、これも江戸時代初期を代表する石仏の一つと言ってよいだろう。

練馬北町陸橋西路傍 練馬区錦2-23-14


環状八号線の北町陸橋交差点から側道を平和台方面に向かう。200mほど先の三差路の角、歩道の脇に庚申塔が立っていた。


背の高い駒型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」文字部分は朱塗りの跡がある。


塔の右側面 大きくふじ 大山道。旧川越街道の大山道の分かれ道に不動像の載った道標があったが、街道筋でもあり、これからもいくつか同じような道標を見かけるものと思われる


塔の左側面に造立年月日。続いて武州豊嶋郡下練馬驛上宿 庚申待講中。ここに見える「驛=駅」はもちろん鉄道の駅ではなく街道の馬継ぎ場のことだろう。旅人たちはこの辺りで宿を取って休み、まだまだ先が長い大山巡りのために馬を調達したり、替え馬をしたのかもしれない。