谷中・石田・福田の石仏

谷中集落センター 川越市谷中9付近[地図]


菅間の旧阿弥陀堂墓地の南の信号交差点から川越街道宮元町交差点まで田園風景の中を南西に進む。五差路の信号交差点を過ぎると谷中の集落に入るが、その先の三差路付近の道路左脇に火の見やぐらが立っている。その手前を右折して、細い道を進むと薬師堂の墓地があった。同じ敷地内に谷中集落センターが立っていて、こちらの場所は地図の上では「谷中集落センター」と表記されることが多いようだ。


薬師堂の右、墓地入口近くに丸彫りの地蔵菩薩立像 享保12(1727)白カビが目立つが像に大きな欠損はない。下の台の上の面は例のくぼみ穴が穿たれていた。


角柱型の石塔の正面中央「念佛講中」両脇に造立年月日。左下に谷中村と刻まれている。


その隣 庚申塔 享保20(1735)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


この付近の庚申塔では青面金剛の顔がつぶされていてのっぺらぼうの場合が多かったがが、こちらはかろうじて目をいからせて忿怒の相を表している。顔の右脇に造立年月日。左脇に谷中村 施主十二人と刻まれていた。


足の両脇に二鶏を半浮彫。足元の邪鬼はあおむけで腹を踏まれている。この形はかなり珍しい。三猿は正面向き、うつむき加減、まるで邪鬼の悲惨な姿を「見ない」「聞かない」「言わない」


庚申塔の向い、小堂の中、左端に寛政6(1794)丸彫りの如意輪観音坐像。こちらは墓石だった。その横に丸彫りの六地蔵菩薩立像 寛政8(1796)


左から2番目の石塔の正面、中央に「萬人講」右脇に谷中村、左脇に願主。3番目には「奉建立六(地蔵)」両脇に造立年月日が刻まれている。

谷中火の見やぐら下  川越市谷中15西[地図]


薬師堂墓地を出てまた少し南西に進むと左側に「谷中火の見やぐら」が立っていた。やぐら下に石塔が見える。ここから南方向には住宅はなく田園がひろがっている。この三差路を右折すると地蔵堂墓地の裏を通って石田交差点方面へ、両脇に木の電信柱が並ぶ道を南西方向に直進すると、県道号12号線に出て川越街道の宮元町交差点方面に至る。写真中央、火の見やぐらの右、電信柱の間に富士山がきれいに見えていた。


百番供養塔 文政3(1820)遠目にみるとやぐらの真下に見えたが実際はその東側の脇に南向きに立っていた。

四角い台の上の角柱型の石塔の正面上部、梵字「カン」の下を円形に彫りくぼめた中に三面六臂の馬頭観音坐像を浮き彫り。狭いところではあるが細部までしっかりと彫られている。ただし、肝心の馬頭はすりきれたのかはっきりしない。それでも全体から考えて馬頭観世音であることは間違いはない。円の外の四隅に文字が見えるが薄くなって読みにくい。右上は「奉」左上は「馬」のように見える。左下は「郷」右下は「国」?


下部中央に「百番供養塔」西国・坂東・秩父合わせて百か所観音。観音霊場順礼供養塔である。両脇の銘は薄くなっているが「如是畜生 發菩提心」だろう。


塔の右側面に造立年月日。上部に梵字が三つ刻まれているが彫りが薄くなっている。左側面上部にも梵字が三つあり、正面の「カン」と合わせて七観音を表しているのだろうか。


左側面には谷中邑 願主とあり、その下に3名の名前が刻まれていた。さらに左のほうには「他村中」のように見えるがこのあたりはあまり自信はない。塔の上部はかなり深く穴が穿たれていた。谷中集落センター 川越市谷中9付近[地図]



菅間の旧阿弥陀堂墓地の南の信号交差点から川越街道宮元町交差点まで田園風景の中を南西に進む。五差路の信号交差点を過ぎると谷中の集落に入るが、その先の三差路付近の道路左脇に火の見やぐらが立っている。その手前を右折して、細い道を進むと薬師堂の墓地があった。同じ敷地内に谷中集落センターが立っていて、こちらの場所は地図の上では「谷中集落センター」と表記されることが多いようだ。


薬師堂の右、墓地入口近くに丸彫りの地蔵菩薩立像 享保12(1727)白カビが目立つが像に大きな欠損はない。下の台の上の面は例のくぼみ穴が穿たれていた。


角柱型の石塔の正面中央「念佛講中」両脇に造立年月日。左下に谷中村と刻まれている。


その隣 庚申塔 享保20(1735)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


この付近の庚申塔では青面金剛の顔がつぶされていてのっぺらぼうの場合が多かったがが、こちらはかろうじて目をいからせて忿怒の相を表している。顔の右脇に造立年月日。左脇に谷中村 施主十二人と刻まれていた。


足の両脇に二鶏を半浮彫。足元の邪鬼はあおむけで腹を踏まれている。この形はかなり珍しい。三猿は正面向き、うつむき加減、まるで邪鬼の悲惨な姿を「見ない」「聞かない」「言わない」


庚申塔の向い、小堂の中、左端に寛政6(1794)丸彫りの如意輪観音坐像。こちらは墓石だった。その横に丸彫りの六地蔵菩薩立像 寛政8(1796)


左から2番目の石塔の正面、中央に「萬人講」右脇に谷中村、左脇に願主。3番目には「奉建立六(地蔵)」両脇に造立年月日が刻まれている。

谷中火の見やぐら下  川越市谷中15西[地図]


薬師堂墓地を出てまた少し南西に進むと左側に「谷中火の見やぐら」が立っていた。やぐら下に石塔が見える。ここから南方向には住宅はなく田園がひろがっている。この三差路を右折すると地蔵堂墓地の裏を通って石田交差点方面へ、両脇に木の電信柱が並ぶ道を南西方向に直進すると、県道号12号線に出て川越街道の宮元町交差点方面に至る。写真中央、火の見やぐらの右、電信柱の間に富士山がきれいに見えていた。


百番供養塔 文政3(1820)遠目にみるとやぐらの真下に見えたが実際はその東側の脇に南向きに立っていた。

四角い台の上の角柱型の石塔の正面上部、梵字「カン」の下を円形に彫りくぼめた中に三面六臂の馬頭観音坐像を浮き彫り。狭いところではあるが細部までしっかりと彫られている。ただし、肝心の馬頭はすりきれたのかはっきりしない。それでも全体から考えて馬頭観世音であることは間違いはない。円の外の四隅に文字が見えるが薄くなって読みにくい。右上は「奉」左上は「馬」のように見える。左下は「郷」右下は「国」?


下部中央に「百番供養塔」西国・坂東・秩父合わせて百か所観音。観音霊場順礼供養塔である。両脇の銘は薄くなっているが「如是畜生 發菩提心」だろう。


塔の右側面に造立年月日。上部に梵字が三つ刻まれているが彫りが薄くなっている。左側面上部にも梵字が三つあり、正面の「カン」と合わせて七観音を表しているのだろうか。


左側面には谷中邑 願主とあり、その下に3名の名前が刻まれていた。さらに左のほうには「他村中」のように見えるがこのあたりはあまり自信はない。塔の上部はかなり深く穴が穿たれていた。

 

県道12号線八ツ島団地バス停南三差路 川越市石田274北[地図]


前回見た「谷中火の見やぐら」から宮元町方面に向かって進むと県道12号線に出る。この三差路交差点の角のところ、住宅の駐車場の塀の前に石塔が立っていた。写真右の道の先が谷中、菅間方面。写真左の道が県道12号線で南は宮元町交差点へ、北は釘無橋で入間川を越えて川島町に入る。


馬頭観音塔 文化8(1811)大きな四角い台の上、角柱型の石塔の正面に「馬頭觀世音」下の台の正面と両側面に細かい字でおびただしい数の文字が刻まれているが、風化が進み彫りが薄くなっていてかなり読みにくい。村名と人名と思われるのだが、なんとか老袋村、釘無村、谷中村、石田村などは確認できた。地元の人ならもっと多くの村が読めるのだろうが・・・いずれにしてもかなり広い範囲の村の協力があったことは間違いない。

石塔の右側面、大きく 右 すが満ミち。すが満=菅間だろう。右脇に造立年月日が刻まれていた。

左側面 左 くきなし?ミち、加うのす道。江戸時代後期らしく道標になっている。加うのす=鴻巣はいいとしてくきなしは読み違いか?自信はないが久喜なのか?

県道12号線石田交差点南西路傍 川越市石田161[地図]


県道12号線を北へ向かうと石田交差点の手前、道路左側に二基の石塔が並んでいた。


右 馬頭観音塔 文久2(1862)角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音」下の台は半ば土に埋もれている。正面上のへりに沿って右から左へ 世 話 人とあり、その下に右端から石田(村)続いて十名ほどの名前が刻まれている。


塔も台も左側面は無銘、塔の右側面には造立年月日。台の右側面 右に發願(主)とあり3名の名前が刻まれていた。


左は不明塔 享和元年(1801)塔は風化が進み、塔の正面と左側面には銘はまったく見られない。右側面に紀年銘だけが残っていた。

 

地蔵堂墓地 川越市石田533東[地図]


谷中火の見やぐらの三差路から西へ300mほど進むと、道路左側に地蔵堂の共同墓地がある。墓地の北西の塀の外に三基の石塔が西向きに並んでいた。


左 庚申塔 元禄6(1693)鋭い角度の駒型の石塔の正面 日月 青面金剛立像 合掌型六臂。瑞雲を伴わない日天・月天は珍しい。元禄期の庚申塔は「邪鬼なし青面金剛塔」もあり、その後の庚申塔と比べるとユニークなものが多く見られる。300年を超える年月を経て、像は風化摩耗の為に漠然としていた。


三角の髪型の青面金剛。顔のあたりは白カビも多く目鼻もはっきりしない。像の右脇「庚申供養之所」左脇に造立年月日。


足元に邪鬼はいるが、二鶏、三猿が見当たらない・・・と思ったら、三猿は台のほうに上半身だけ出して並んでいた。邪鬼の下の部分、右に講中緇索三十一人、左に石田村大勝寺良海と刻まれている。「緇索」を調べてみると緇=僧侶のことらしい。索は分からないが、僧俗合わせて31人の講ということだろう。


中央 地蔵菩薩立像 元禄3(1690)丸彫りで蓮台から上のみが残されていて、本来あるはずの石塔部を欠く。この状態ではなにも情報はないと思ったのだが・・・


背面に回って見たら奥のほうに銘が刻まれていた。造立年月日に続いて中院三十六世 豎者法印辯□。小仙波にある天台宗の古刹「中院」のご住職の墓石と思われる。ここに中院の末寺があったのだろうか。


右端の板碑型の石塔は江戸時代初期、承応3(1654)年の紀年銘がある。中央に阿弥陀三尊種子の下、権大僧都法印・・・と見え、こちらもやはりご住職の墓石だろう。

大日堂墓地 川越市石田769[地図]


地蔵堂から200mほど西の交差点を右折、北へ100mほど進むと道路左側に大日堂墓地があった。その入口右側のところに二基の石塔が並んでいる。


右 馬頭観音坐像 天保10(1839)三面六臂忿怒相の馬頭観音。塔全体を白カビが厚く覆いつくしていた。


白カビにまみれながらも彫りはしっかりしていてなかなかの迫力。頭上の馬頭も明快。三面いずれも正面を向く形は意外と珍しい。


塔の右側面に造立年月日。左側面には願主とあり、その下に個人名、さらに並んで惣村中と刻まれている。


左 三界万霊塔 安永10(1781)舟形光背、梵字「カ」の下に地蔵菩薩立像を浮き彫り。お地蔵さまはやや右を向いている。丸彫りでは時々あるが浮き彫り像ではあまり見たことがない。光背右脇に「三界萬霊」左脇に造立年月日が刻まれていた。

 

福田観音堂墓地 川越市福田509東[地図]


国道254線、入間川にかかる落合橋の南詰の東に観音堂墓地があった。国道は少し手前から落合橋に向かって緩やかなのぼり坂になっていて国道から直接右折はできず、福田交差点の先でいちど左側道に入り、右折して国道の下のトンネルを抜けて墓地の入口の前に出る。


墓地に入ってすぐ右手に6基の石塔が並んでいた。右の2基と左端の合わせて3基は個人の墓石らしい。


右から3番目 地蔵菩薩立像 寛政4(1792)丸彫りのお地蔵さまはやや右を向いているが、よく見ると石塔の上の蓮台の乗り方がずれていて、たぶん一度落ちた後に補修されたものだろう。


角柱型の石塔の正面「奉建立地蔵尊像」右下に観音堂、左下に玄覺大徳。塔の右側面に「福田村」左側面には造立年月日が刻まれていた。


その隣 六字名号塔 享保13(1728)四角い台の上に角柱型の石塔。その上に蓮台の座る丸彫りの地蔵像が載る。静かに瞑目するお地蔵様。像に大きな欠損はなく堂々としていて美しい。


石塔の銘は極めて薄く、細かいところは判読が難しい。正面に「南阿弥陀佛」右側面、手前に造立年月日。その奥に日本國中志菩提祈者也。さらに奥下に俗名が刻まれていた。造立者は個人なのか?


左側面、こちらは比較的大きな字で「當村ヨリ王子村□□石橋十三所余渡□者也」この地域に多くの石橋を作ったということだろう。王子村は現在の地図では付近に見当たらず読み間違いかもしれない。さらに裏面に「奉納大乗妙典六十六部供養塔」とあり、右脇に武州入間郡福田村と刻まれていた。整理してみると「名号塔」であり、「石橋供養塔」であり、「大乗妙典供養塔」でもあるということになるのだろうか。角柱型の文字塔ではときどきそういったものをみることがあるが、この場合はどうだろう?


その隣 一石六地蔵塔 元禄13(1700)舟形光背に六体の地蔵菩薩立像を二段に浮き彫り。いくらか風化摩耗が見られるが尊像の姿は素朴で美しい。以前取り扱った他の地域ではこのような一石六地蔵塔を時々見かけたが、川越に入ってからはほとんど見ていないような気がする。墓地の入口でよく見かける六基の地蔵塔を並べるタイプの六地蔵塔は、江戸時代中期以降のもので古いものはあまりない。それに対して江戸時代初期の六地蔵塔はほとんどが六面石幢か、このような一石六地蔵塔であった。このあたりの時代的分布を調べてみるのも面白そうだ。ちょっとタイプは違うが、練馬区錦2丁目の金乗院の大きな六地蔵塔(2008.06.06の記事)が思い出される。


塔の下部、両脇に造立年月日。その間の部分に當村施主 福田女村中と刻まれていた。


墓地の入口から正面 観音堂の前に広がる墓地の最初のブロックは、奥に笠付き角柱型の石塔が立ち、その手前両脇に10基ほどの石塔が向かい合って並んでいた。歴代ご住職の墓石など、そのほとんどは墓石のようだ。


北向きに並ぶ石塔の右から4番目 庚申塔 延宝3(1675)角柱型の石塔の正面 青面金剛立像 合掌型六臂。


青面金剛の顔は今一つはっきりしない。頭上に日天月天が見当たらないというのは相当珍しい。


足元に邪鬼。その下に正面向きの三猿。二鶏の姿は見えなかった。


石塔の左側面中央に武刕入間郡福田村とあり、その下、周りに数人の名前が刻まれているが、塔の表面は粗く、文字なのか傷なのか、細かいところははっきりしない。


右側面に造立年月日。その横にも文字らしきものが見えるが、こちらは白カビも多く、何回かライトを当ててみたりしたが残念ながらうまく読み取れなかった。

 

福田馬頭観音群 川越市福田37-1東[地図]


国道254号線福田交差点の100mほど南を西に入ってすぐ、国道の脇道の交差点の角に七基の石塔が並んでいた。


左から 正体不明塔。塔全体に風化が進み、正面の銘は判読不能。両側面に人名らしき銘が見えるが造立年などもわからない。ここに集められた残りの石塔がすべて馬頭観音塔なので、たぶんこちらも馬頭観音塔と思われるのだが・・・


2番目 馬頭観音塔 大正14(1925)角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音」左脇に造立年月日。施主は個人名。


右側面に發起人、世話人が刻まれていた。中に親戚一同というのは珍しい。


3番目 馬頭観音塔 大正12(1923)角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音」左側面に造立年月日。施主、個人名と並んで、ここでも親戚一同と刻まれている。


4番目 馬頭観音塔 元治2(1865)二段の台の上の角柱型の石塔の正面に大きく「馬頭觀世音」その下の台の正面に寄進とあり近村中と刻まれていた。


上の台の左側面、入間郡福田村 願主 個人名。その奥に世話人とあり12名の名前。さらに下の台のほうにも世話人とあり数名の名前が刻まれている。


塔の右側面に造立年月日。下の台の右側面、こちらにも世話人とあり十数名の名前が刻まれていた。


5番目 馬頭観音塔 天明7(1787)四角い台の上、駒型の石塔の正面に三面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。


頭上に馬頭。正面の顔は忿怒相。馬口印を結び、矛、法輪、斧、羂索を持つ。


塔の右側面「奉造立馬頭觀世音并寒念佛供養塔往□□」こちらから見える顔は穏やかな慈悲相。


左側面に造立年月日。続いて武州入間郡福田邑 施主二名の名前。こちらから見える顔は口をへの字に結び、三眼忿怒相だった。


6番目 馬頭観音塔 明治30年代。角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音」塔の左側面に造立年月日。銘の一部が欠けているため年度は確定できない。奥に願主 個人名


7番目 馬頭観音塔 大正13(1924)角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音」塔の上部両角が欠けている。塔の右側面に造立年月日。左側面には個人名が刻まれていた。