西区峰岸

穂積神社北商店脇 西区峰岸18[地図]


県道57号線の宝来交差点から北へ進むと、900mほど先の押しボタン信号交差点の左角にある商店の脇に小堂が立っていた。この商店の南を東西に走る細い道は、西は荒川の渡し場へ、東に進むとその先は秋葉神社があり、「あきば道」の古道らしい。


小堂の左脇に角柱型の石塔が立っていた。道標である。風化が進み全体に白く銘は薄く読みにくい。


塔の正面 東 秋葉三尺坊 九丁、原市 三里 道。


塔の左側面 南 與野 二里 道。


裏面は一番状態が悪く銘はほとんど読めない。かろうじて上のほうに「西」その少し下に「川」とかすかに見える。方向から考えると「川ごへ」だろうか。


右側面は小堂の中から一部だけをのぞき見ることができた。北 平方 十丁、桶川 三里 道。四面に四方向がそろった立派な里程標。紀年銘などは見当たらず残念ながら造立年はわからない。


小堂の中 地蔵菩薩立像 万延2(1861)四角い台の上の角柱型の石塔に敷茄子・蓮台を重ねて、丸彫りの地蔵菩薩立像。台の正面に秋葉 岩槻道。


右手に錫杖、左手に幼児を抱き、両足に二人の童子がすがりつく。その尊顔は厳しい。首には補修の跡があった。


塔の右側面に造立年月日。左側面 峯岸村 願主 八十八才 そめ女。施主 個人名。昔、火事で幼子を失った祖母が、追善供養のために造塔したものだという。

峰岸団地前 西区峰岸100北[地図]


県道57号線をさらに北へ進む。道路左手に峰岸団地があり、その入口付近のバス停の先、路傍に三基の石塔が並んでいた。


長い年月にわたって風雨にさらされ、三基とも風化が進み、白カビも多く見られる。


左 庚申塔 貞享3(1686)舟形光背型の文字塔で下部に三猿を彫る「三猿庚申塔」多くは板碑型、舟形光背型で江戸時代初期に多い。


光背中央、白カビの中に「奉造立庚申供養」両脇に造立年月日。


下部に正面向きの比較的大きな三猿。カビも多く顔の様子などはわからない。その下の部分、右に寶来村とあり、続いて七名の名前が刻まれていた。


中央 庚申塔 宝暦4(1754)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


日月雲は瑞雲が長く伸びつながる形でこれは時々見かける。顔のあたりはかなり不鮮明だが頭上に蛇、三眼・忿怒相か?持物は斧・法輪・弓・矢。先日指扇の旧華蔵寺付近の小堂の中の庚申塔の記事で「右上手に矛のかわりに斧を持つのは珍しい」と書いたが、その後、西大宮駅東の公園の庚申塔、続いて今回の庚申塔とこの地域だけで三基見かけることになった。地域性の問題だろうか?


足の両脇に二鶏。足元に邪鬼。なぜかおしりを高く上げている。その下に三猿。両脇の猿が内を向いて座っていた。


塔の両側面は道標になっているが、両隣の庚申塔が邪魔になっているうえに、白カビが多く、また銘も一部薄くなっていて読み取りは非常に苦労する。こちら左側面、上部に「是より」とあり、その下に東 与のまち うゑ田谷領 東 あきば はら市 いわつき 道。(「与の」の「の」「あきば」の「ば」は変体仮名)いわつきは厚い白カビの中にかろうじて確認できた。


左側面下部には造立年月日が二行に分けて刻まれている。


右側面は肝心な部分に白カビが厚くなっていてさらに読み取りが難しい。遠目にはまったく読めない。


右隣の庚申塔の後ろに回ってのぞき込むようにして銘の確認を試みた。塔の上部に「是より」、その下は 北 平方だが、初めに確認できたのが平方の「方」、写真右下の薄いカビの中に見える。その上が「平」そこから斜め左上に「北」。実際には恭の下の部分「㣺」で、写真のちょうど真ん中あたり、「是より」の「り」の真下に確認できる。「平方」の左に「□□道」と見えるがこちらははっきりしない。


さらにその下、西 □□□□大道。□□□□は「かはこゑ」らしいのだが、こちらもうまく読み取ることはできなかった。


右 庚申塔。板碑型だが風化のために破損、断裂跡があり白カビも多い。下部に三猿が彫られた「三猿庚申塔」


銘の上部は補修跡のために一部読めないが、銘の主要部分は白カビが薄くなっていて読むことができた。右から施主敬白、願主 榮賢、□成就現當、□悉地也。「悉」の斜め左上に「日」だけが見える。紀年銘の上部がちょうど補修跡で欠けていて造立年は不明。


塔の下部に正面向きに座る三猿。その下の部分に数名の名前が刻まれていた。