大宮区 三橋

藤橋東墓地 大宮区三橋4-930[地図]



鴨川に架かる藤橋東の信号交差点から北へ進むと、道路左側に墓地があった。入口は南北二ヶ所にあり、南の入口の左脇、墓地の外に石塔が立っている。


庚申塔 元禄3(1690)舟形光背に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。白カビが薄くかかり、風化も進む。


顔はつぶれ合掌した手の先も破損していた。足の両脇に比較的大きな二鶏を浮き彫り。光背上部に「奉造立」右脇に「青面金剛庚申待供養二世安樂」左脇に造立年月日。


足元に邪鬼は無く、青面金剛は磐座の上に立つ。下部に正面向きの三猿。こちらも顔が削れている。光背左下に講衆とあり、三猿の下の部分に八名の名前が刻まれていた。


北の入口の左脇、ブロック塀の裏に石塔が立っている。



念仏供養塔 元禄7(1694)舟形光背に二臂の如意輪観音坐像を浮き彫り。ところどころ白カビがあり、光背の縁の一部が欠けているが、像に大きな損傷はなく銘もきれいに残っていた。。


光背上部、梵字「キリーク」の下に「念佛供養」右脇に武州足立郡植田谷領側谷戸村。左脇に造立年月日。尊顔は静かで美しい。


足元の部分、正面に十数名の名前が刻まれているが、その多くはひらがなで、女人講中なのかもしれない。

天神社 大宮区三橋4ー258[地図]


大宮西高校の東にある三橋天神公園。敷地の中に三橋四丁目自治会館と天神社が立っていて、その左に稲荷社、さらに二つの境内社。一番手前の小堂の中に石塔が立っていた。


庚申塔 寛政8(1796)角柱型の石塔の正面、大きな文字で「庚申塔」下の台の正面に銘は見当たらない。


塔の右側面、中央に「奉納 坂東 西國 秩父 百ヶ所供養塔」右脇に造立年月日。左脇には願主だろうか、二名の名前が刻まれていた。


左側面にセハ人一名の名前。続いて助力 八人、さらに同 一銀仁朱とあり個人の名前が刻まれている。裏面に武州足立郡側海斗村と刻まれているらしいが、現在は裏面は見ることができず、こちらは未確認。


台石と小堂の壁との空間が極端に狭く、きれいな写真が撮れなかった。右側面、奥に北とあり、続いて ひら方、かわごへ ミち。


左側面、手前に南とあり、よの、江戸 道。二方向四地名の刻まれた道標になっている。以前は近くの路傍に立っていたのだろう。

茶堂 大宮区三橋2-298[地図]


新大宮バイパスの三橋二丁目交差点から県道56号線を西に進む。100mほど先、道路右側に茶堂の入口があった。小面がひなびた佇まいの茶堂。右手前に解説板が立っている。


境内に入って左側 敷石供養塔 寛政12(1800)四角い台の上、背の高い角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、阿弥陀三尊種子の下に「敷石供養塔」その下に願主 禪心 林惣八 二人の名前が刻まれていた。解説板によると茶堂の前の道は東は与野、大宮、岩槻、西は川越に至る「川越道」で、非常に通行量が多く、この「川越道」に敷石をした記念にこの石塔が建てられたという。


塔の右側面上部に造立年月日。その横に大きく武州足立郡並木村。


その下に近隣の村々、現在の西区や上尾などから、30の村の名前が刻まれている。


右側面、上部に「助力」とあり、こちらにも多くの村の名前が刻まれている。上のほうから堤埼、地頭方など上尾の村、大成、天沼、北袋など、大宮区の村、木崎、針ヶ谷など浦和区の村、与野宿、上峰など中央区の村が続く。


その下に白鍬、町谷、塚本など桜区の村、嶋根、三条町など西区の村と続き、北から南まで6行×9段、合わせて54ヶ村。左側面の30ヶ村と並木村を足すと解説板にあったように近隣85ヶ村が協力してこの事業にあたったことになる。さらに最下部二段に渡って世話人だろうか、各村から16名の名前が刻まれていた。


裏面にも銘があるが、他の三面に比べていまひとつはっきりしない。上部を薄く彫りくぼめた中に「導師普門院現住権大僧都豎者法印・・・・・・」


下部にも銘があり、ところどころ・・・僧と・・・・村とか見えるが、読めないところも多く、銘としては判読できなかった。


資料によると茶堂には敷石供養塔と名号塔があるということだったが、名号塔がどうしても見つからず、あきらめて帰ろうと自転車を引いて入口へ向かった時に、解説板の付近の地面に横たわる石に気が付いた。よく見ると正面に「南阿弥陀佛」と刻まれている。他に銘が見当たらず造立年など詳細は不明だが、資料にあった名号塔はこれだろう。

 

三橋三丁目共同墓地 大宮区三橋3-186[地図]


新大宮バイパス円阿弥北交差点からバイパス東側の歩道を北に進み、すぐ先を斜め右に入ってゆくと、道路左側に古くからの関係者たちによって新たにきれいに整備された墓地があった。墓地の敷地内、道路近くは休憩スペースがあり、手前に三つのお堂が立っている。写真右の本格的なお堂には金色に輝く阿弥陀如来像が祀られていた。


手前の小堂の中 不動明王坐像 慶応2(1866)真っ赤に彩色された炎の光背に細長い宝剣と羂索を手にした不動明王を浮き彫り。頭上に日天・月天。不動明王が座る磐座は中央に滝、両側に二童子を配し、成田山不動明王塔の典型的な形。その下、角柱型の石塔の正面に大きな字で「成田山」


塔の左側面に造立年月日。続いて武州足立郡牛飼村。下の台の左側面に「講中」


塔の右側面、かなりのくずし字だが「天下泰平 國土安穏」だろう。台の右側面に「世話人」


台の正面には「邑内安全」と刻まれていた。


小堂右に小型の不動明王坐像が置かれている。同じように赤い炎の光背を負い、剣と羂索を持つが、こちらはかなり風化が進み石塔も大きく破損していた。


奥の小堂の中には、丸彫りの六地蔵菩薩塔と二基の角柱型の石塔が並んでいる。


丸彫りの六地蔵菩薩塔 享和2(1802)像の様子、蓮台、敷茄子などよく揃っていて違和感はないが、頭部はあとから補修されたものらしく、ほとんどのっぺらぼうという状態だった。


下の台は三つに分かれ、それぞれに地蔵菩薩立像が二体づつ乗っている。右の台は銘が薄い。右から足立郡牛飼邑 善男女 講中。続いて造立年月日。


真ん中の台は一部に剥落が見られ、右のほうの銘はよくわからないが、中央は「百万遍念佛善男女□供養」だろう。


左の台も一部剥落。十数名の戒名、主に童子、童女戒名が刻まれていた。


その隣 六字名号塔 嘉永元年(1848)隅丸角柱型の石塔の正面独特な書体で「南阿弥陀佛」以前この石塔を江戸時代後期に活躍した念佛行者徳本上人の「徳本名号塔」と紹介したのだが、その後似たような系統の書体があったり、徳本上人の書体をまねた作品もあることを知った。この名号塔については問題点が二つ、一つは造立年月日が嘉永元年(1848)であること。徳本上人の没年は文政元年(1818)で上人が亡くなってから30年後の造立になる。二つ目は、徳本名号塔には独特のサインと花押が刻まれているのだが、ここではそれが確認できないこと。ただ、先日紹介した浦和区瀬ケ崎の東泉寺墓地の名号塔と較べてみると両者の銘は全く同じように見え、やはり「徳本名号塔」の可能性が高いと思う。即断はできないが・・・


塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日。


塔の下の台の正面に「念佛講中」とあり、側面にひらがなで名前がいくつか刻まれている。女人講中らしい。


左端 大乗妙典供養塔 天明5(1785)角柱型の石塔の正面 阿弥陀三尊種子の下「奉納大乗妙典六十六部日本廻國」上部両脇に「天下和順 日月清明」続いて造立年月日。


塔の右側面中央に戒名。両脇に刻まれた紀年銘は寛政3(1791)、塔の造立年である天明5(1785)の6年後になる。後から追加されたものだろうか?


左側面に武刕足立郡 願主 牛飼村、六部 小上門と刻まれていた。


不動尊の小堂の裏、六地蔵の小堂の左脇にも多くの石塔が並んでいる。内二基は個人のものだった。


ブロック塀の前の四基のうち左から2番目 順礼供養塔 弘化3(1846)大きな四角い台の上の角柱型の石塔の正面「奉順禮 西國坂東秩父 百番供養塔」両脇に造立年月日


塔の左側面に願主 到阿念西法子。右側面に武州足立郡牛飼村と刻まれている。


ひとつ飛ばして右端 普門品供養塔 明和9(1772)駒型の石塔の正面 梵字「サ」の下に「奉讀誦普門品一萬五千部供養」両脇に造立年月日。塔の左側面は無銘。右側面に銘があるがフェンスが近すぎて確認できなかった。


右奥、フェンスの前に東向きに立つ 六字名号塔 天保15(1844)角柱型の石塔の正面「南無阿彌陀佛」右脇に信州善光寺別當大勧進現住。左脇に大日覺院権僧正光純拝書。


塔の左側面に 牛飼村。右側面に造立年月日が刻まれている。

 

旧公民館跡 大宮区三橋2-261[地図]


新大宮バイパスの三橋二丁目交差点から東へ向かう県道165号線は、片側二車線でまっすぐ大宮駅まで続く新しい道路。旧道「所沢新道」は交差点の近くでやや北へ入ってから東へ向かう片側一車線の狭い道で、国道17号線の桜木町交差点を通って大宮氷川神社参道まで至る、当時は相当交通量の多い街道だったようだ。旧道に入ってすぐ、道路左側にある三橋老人憩いの家分館の敷地の隅、ブロック塀の前に石塔が立っていた。ここは以前公民館があった場所らしい。


敷石供養塔 造立年不明。角柱型の石塔は、全体に風化が進み、正面には深いくぼみ穴がいくつか穿たれていて、銘を満足には読めない状態だが、「敷石□新供□塔」=敷石供養塔だろう。


塔の右側面に「西 川ごへ 南 引又 大山 道」


左側面には「南 よの 江戸 東 大ミや いわ津き 道」と三方向七地名の刻まれた道標になっている。近くにあった解説板によると、南 与野となっているので、ここから250mほど東の辻に立っていたものらしい。


西隣のお宅が改築されるようで、最近たまたま通りかかった時にはブロック塀が撤去されて更地になっていた。以前は見られなかった裏面をのぞいてみたが、やはりくぼみ穴がいくつか穿たれている。裏面上部には銘らしきものは無く、下部に小さな文字がいくつか見えるがほとんど読み取ることができない。結局造立年などの銘は確認できなかった。

所沢新道路傍 大宮区三橋2-868[地図]


敷石供養塔・道標から200mほど東、大きな信号交差点の少し手前の道路右側の路傍に小堂が立っていた。最近整備されたらしいが、以前あった教育委員会の解説板は見当たらない。


小堂の中 庚申塔 正徳2(1712)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


顔は風化のためなのかのっぺらぼう、右頬のあたりが欠けていた。持物を見ると、定番の法輪は無く、上の右手は布切れの付いた長い柄の武器?左手には剣。下の手には弓矢を持っている。


青面金剛は磐座に立ち邪鬼はいない。下部に正面向きに座る三猿だけが彫られていた。


塔の右側面中央に「奉造立庚申供養塔」上部両脇に天下泰平。右下に これ与南与野道。


下部に武刕足立郡並木村。両脇に四名の名前。


左側面中央に造立年月日。上部両脇に國土安穏。左下に これ与東大ミや道。


こちらも下部に四名の名前が刻まれている。

旧万福寺墓地 大宮区三橋2-271[地図]


新大宮バイパスの三橋二丁目交差点から道路東側の歩道を北へ50mほど進むと斜め右へ細い道が分かれる。この道に入ってすぐ先を右折、次の角右手に墓地があり、その北西のブロック塀の外に小堂が立っていた。


小堂の中には六地蔵塔とやや大き目な地蔵菩薩塔が並ぶ。


左端 丸彫りの地蔵菩薩塔 享保12(1727)


丸彫りの地蔵菩薩立像は白カビも欠損もなく、きれいな状態を保っている。蓮台以下の部分と石が違うようにも見えて、もしかしたら像は後から補われたものかもしれない。


蓮台以下の華やかさが圧巻。四角い台座の上に六角形の台、その上は亀が彫られていて、さらに敷茄子、重厚な蓮台が乗る。敷茄子には巻き付くように龍が彫られていた。


六角形の台の正面には天女?右隣はカエルだろうか?猿のようにも見える。


正面の左隣はキツネのような顔をしているが、耳が大きくこれは兎だろう。


残りの三つの面には銘が刻まれていた。裏の面に造立年月日。右脇に信女戒名。


左脇に信士戒名が刻まれている。紀年銘を見ると三月吉日となっていて命日ではない。その他に銘は見当たらず、この石塔は墓石としてではなく、なにかの供養塔として造立されたものだろう。二つの戒名は生前戒名で、ご夫婦が施主ということかもしれない。


続いて丸彫りの六地蔵菩薩塔 文化2(1805)やや風化が見られるものもあるが、蓮台、敷茄子、像の様子はよく揃っていていかにも六地蔵らしい。


台は三つに分かれていて、それぞれに施主名などが刻まれていた。右の台の右端に造立年月日。隣に「念佛講中」さらに武州足立郡並木村、願主一名の名前が刻まれている。


台の左のエンドには「よの□□」とあり、石工名が刻まれていた。

 

普門院地蔵堂 大宮区三橋1-672[地図]


大宮の桜木町交差点から指扇方面へ向かう県道2号線。三橋中学校北交差点から北へ入った先の三差路のあたりに三橋1丁目自治会館がある。三差路の左の道に入ると、すぐ先の右側に普門院地蔵堂の入り口があった。


入口の右側に西向きに二基の石塔が並んでいる。


左 如意輪観音坐像 正徳4(1714)光背上部に梵字「サ」光背右脇に願主 父七十三歳現世位とあるが、これは珍しい。普通は名前を出すだろう。その下のほうには施主 並木村。左脇に紀年銘、最後が吉日ではなく九月十九日となっている。その下には個人名が二つ。さて、これは墓石なのか、それともなにかの供養塔なのか?「爲・・・・菩提」とか、「爲・・・二世安樂」などの銘もないが、といってはっきりした戒名も見当たらない。どう判断したらいいのだろう?


右 庚申塔 宝永4(1707)板碑型の三猿庚申塔。中央に「奉造立庚申石佛」右脇に武州足立郡并木村衆中之施主、左脇に造立年月日。左下に敬白。塔の下部には正面向きの三猿が彫られていた。


二基の石仏の後ろには四基の馬頭観音の文字塔が集められていた。右の一番大きなものをのぞくといずれも個人の造立。造立年は2番目から順に大正6(1917)昭和58(1983)明治36(1903)となっている。


右端は 馬頭観音塔 天保7(1836)四角い台の上の角柱型の石塔の正面に「馬頭觀世音」塔の右側面に造立年月日。左側面に足立郡原並木村と刻まれていた。


お堂の正面、向き合うように小堂がが立っている。中に並ぶ六地蔵塔はかなり新しいものらしい。その向こうに大きな石碑が立ち、さらに地蔵菩薩塔が立っていた。


愛宕講供養塔 造立年不明。舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背左側が大きく欠けていて、たぶんこの辺りに紀年銘があったものと思われる。


光背右脇に「奉造立愛宕講供養」その下に施主と刻まれていた。腰のあたりに断裂跡が見える。現在は錫杖の一部と光背左側だけが大きく欠けているが、10年前に見たときは断裂跡から上の部分もそっくり欠けていて、光背型ではなく丸彫りのお地蔵様に見えたものだった。どうやらその後補修されたものらしい。

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(2014年2月17日の記事より)


足元の部分には中央に「念心」とあり、左右に合わせて10名の名前が刻まれていた。


六地蔵の小堂の裏、ブロック塀の前に無縁仏が集められている。最後列右から3番目、10年前は表のほうに並んでいた大乗妙典六十六部供養塔があるのに気が付いた。


大乗妙典六十六部供養塔 天明2(1782)。周りの石塔にさえぎられて塔全体の確認は難しい。角柱型の石塔の正面、阿弥陀三尊種子の下「奉納(大乗妙典六十六部日本回國供養塔)」

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(2014年2月17日の記事より)


ブロック塀に沿って奥に進むとコンクリートの台の上に四基の石塔が並んでいる。右の二基は墓石だった。


右から3番目 大日如来塔 宝永4(1707)舟形光背に智拳印を結ぶ金剛界大日如来立像を浮き彫り。光背に縁の一部を欠く。像の一部に風化が見られるが、銘は力強く明解。光背右脇に武州足立郡并木村衆中、左脇に造立年月日。下部両脇に施主敬白と刻まれていた。


左端 不食供養塔 正徳元年(1711)舟形光背に定印を結ぶ胎蔵界大日如来坐像を浮き彫り。なぜか頭上の梵字は金剛界大日如来を表す「バン」光背右脇に「奉造立不食供養」左脇に造立年月日。こちらも舟形光背に斜めに断裂跡があり、10年前見たときはその部分がそっくり欠けていた。尊顔はふくよかな中に凛とした気品が漂う。

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(2014年2月17日の記事より)


塔の下の部分にやはり「念心」とあり、こちらは8名の名前が刻まれていた。

三橋一丁目自治会館東 大宮区三橋1-717[地図]


地蔵堂の南の三差路に自治会館がある。その敷地の東の一角に小堂が立っていた。


小堂の中 庚申塔 元禄7(1694)四角い台の上の唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


日月雲は線刻。三角の髪に三眼の青面金剛は静かなたたずまい。像の右脇に「奉供養庚申待」その下に造立年月日。左脇に武刕足立郡并木内原村皆施主。


元禄の庚申塔、青面金剛の足元に邪鬼は無く、磐座の下に正面向きの三猿、その下に大きな二鶏が浮き彫りされている。


裏に回って堂の隙間からのぞいて見ると塔の裏面に「南無阿弥陀佛」と刻まれていた。