中央区下落合・上落合

東光寺墓地 中央区下落合6-13[地図]


与野中央通りの中央区役所交差点から東へ進み、最初の信号交差点を右折すると100mほど先。道路左側に東光寺墓地の入口があった。門柱の表札には「落合霊園」とあるが、資料には「東光寺」となっていて、こちらのほうが通りがいいようだ。


入口から本堂までまっすぐ参道が続き、その左脇には多くの石塔が並んでいた。一番奥、本堂左手前には小堂が立っている。


門を入ってすぐ左手に石塔が並んでいた。前列には東向きに五基の石塔。


左から 馬頭観音塔 文化10(1813)角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音菩薩」


塔の右側面に造立年月日。左側面には中里邑 下落合村講中と刻まれている


その隣 百観音巡礼供養塔 宝暦9(1759)隅丸角柱型の石塔の正面「南無觀世音菩薩」塔の左側面に「西國 坂東 秩父 巡礼成就所」塔の中頃に断裂跡がある。


右側面に造立年月日。その右脇に武州足立郡下落合邑、左脇に日照山東光寺立之と刻まれていた。


卵塔を挟んで念佛供養塔 文化3(1806)舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背右脇に造立年月日。左w気に「念佛講中」その下に下落合村。植木が邪魔して見えないが、足元の部分に願主 いそ と刻まれている。右端の石塔は墓石だった。


後列右 西向きに庚申塔 安永6(1777)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。後ろ右手に小さなショケラを持つユニークな青面金剛。岩槻以外では珍しい。


足の両脇に二鶏。足元に両手をついてうずくまる大型の邪鬼。その下に三猿。両脇の猿は足を大きく投げ出して内向きに座る。


塔の右側面「庚申供養塔」脇に植田谷村林光寺住 法印覺誉。最下部に五名の名前。


左側面に造立年月日。下部両脇に下落合村 講中。最下部にはこちらも五名の名前が刻まれていた。


その隣 善光寺四十八度供養塔 享保17(1732)隅丸角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、阿弥陀三尊種子の下に「奉納信州善光寺四十八度供養塔」両脇に造立年月日。


右側面に寒念佛十人。寒念仏講中によって造立されたものということだろうか。


左側面 武刕足立郡中里村。続いてその横に右 江戸みち。その下に願主 善休と刻まれている。


善光寺四十八度供養塔と向き合うように二基の丸彫り大日如来坐像が並んでいた。いずれも智拳印を結んでいるが左は頭部が欠け、右は左肩から上がそっくり欠けている。廃仏毀釈の結果だろうか、痛ましい。


参道をしばらく進むと左脇に三基の石塔が並ぶ。右の板碑型石塔は墓石だった。



左 宝篋印塔 享保14(1729)屋根型笠の上、相輪の先の宝珠を欠いている。



基礎の正面を彫りくぼめて、縁の両脇に造立年月日。縁の右下に下落合村、左下に中里村。中央に「奉唱満光明真言二百五十万遍之供養塔」右脇に光明真言講中四拾五人、觀音經講中十人。左脇に日照山東光寺住 権大僧都法印宥瓊。残りの三面には梵字がびっしり、宝筐院陀羅尼らしい。


その隣 庚申塔 宝暦12(1762)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


不機嫌そうな三眼の青面金剛。持物は矛・法輪・鏑矢・弓。足の両脇に二鶏を浮き彫り。


足元にうずくまる邪鬼も不機嫌な表情。台の正面に正面に三猿。両脇の猿は内を向いて座っていた。


塔の右側面に造立年月日。


左側面に足立郡下落合村 講中拾四人 助加當村中と刻まれている。


さらに参道を進むと二基の舟形光背型の石塔と角柱型石塔が並んでいた。


左 念仏供養塔 元禄16(1703)梵字「サ」の下に右手与願印、左手に未敷蓮華を手にした聖観音菩薩立像を浮き彫り。光背右脇「奉供養念佛二世安樂所」その下に落合村。


足元の部分にひらがなで多くの名前が刻まれている。


その隣 念仏供養塔 元禄11(1698)四角い台の上 舟形光背に聖観音菩薩立像を浮き彫り。


やはり右手は与願印、左手に未敷蓮華。光背右脇に「念佛供養」左脇に造立年月日。


下部両脇にこちらもひらがなで十数名の名前。右下隅に下落合村と刻まれていた。


右 大乗妙典六十六部供養塔 寛政2(1790)四角い台の上の角柱型の石塔の正面 梵字「バーンク」の下「奉納大乗妙典六十六部日本回國供養塔」上部両脇に天下泰平・國土安全。下部両脇に造立年月日。


塔の左側面 武刕足立郡下落合村。左脇に願主は個人名。


右側面には供養導師金剛山林光寺法印覺誉と刻まれている。


参道を進むと本堂左手前に小堂が立っていた。小堂の中 六地蔵菩薩塔 享保10(1725)丸彫りの六地蔵、右端はあきらかに石質が異なり後から補われたものだろう。右から2番目はなぜかサイズが小さい。








ふたつの横長の台にそれぞれ三体のお地蔵様が乗る。右の台の正面、右から落合、中里、念佛、講中、施主、七十人。左の台に造立年月日。落合村と中里村合わせて施主70人とは大きな念仏講である。入口左側にあった馬頭観音塔にも「下落合村」の横にやや小さく「中里邑」と刻まれていた。二つの村が一緒に講を結んで像塔にあたったのだろう。


六地蔵と向かい合うように参道の右脇にお地蔵様が立っていた。


念仏供養塔 寛文12(1672)形良い舟形光背に地蔵菩薩立像を厚く浮き彫り。光背右脇に「念佛供養」その下に足立郡。左脇に造立年月日。錫杖の先を欠くものの、白カビもなく大きな風化の様子も見られない。円頂・白毫・福耳のお地蔵様は生き生きとした表情で、いまにも光背から歩き出してきそうだ。


その後ろの小堂の中に大きな丸彫りの地蔵菩薩立像 造立年不明。確かな判断材料があるわけではないが、2mを超す丸彫りの大地蔵なので享保期あたりのものではないだろうか。


反花付き台の上の角柱型の石塔の正面中央に戒名が刻まれ、両脇に乃至法界・平等利益。


塔の右側面にも二つの戒名が刻まれているが、結局どこを探しても紀年銘が見たらなかった。

与野東中学校入口 中央区下落合3-21[地図]


国道17号線中山道の赤山通り交差点から東へ150mほど進むと高沼用水路に架かる高谷橋のたもとに出る。橋を越えた先は与野東中学校の西の入口で、その左脇に石塔が祀られていた。


石橋供養塔 宝暦6(1756)先日見た赤山橋の石橋供養塔とは同じ赤山通りの東と西、700mと離れていない。下の二段の台は最近整備された時に新しくされたものらしい。


角柱型の石塔の正面上部に合掌する地蔵菩薩坐像を浮き彫り。像はかなり風化が進み溶け始めていた。像の下に「石橋供養塔」両脇に造立年月日。右下に上落合村 願主 個人名、左下にも個人名が刻まれている。


塔の右側面上部、奥から 村々施入志、先祖菩提 覺忍沙門、真相妙室禅定尼 施主天野六右衛門、林□高鐘禅定門、忍貞禅定 山埼久衛門、蓮室禅定尼 金百疋上落合村。


右側面下部には多くの村の名前が刻まれている。奥のほうはうまく読めないが手前のほうからいくつか読める分だけ拾っておくと、在家村、五関村、白鍬村、町谷村、本宿村、田嶋村、鹿手袋村、上小村田村など、現在の桜区あたりまでの村名が確認できる。


左側面にも多くの村名が刻まれていた。やはり一部読みにくいので読める分だけ拾っておくことにする。上部には土手村、天沼村、上木崎村、下木崎村、三室村、大間木村、中尾村、道祖土村、瀬ケ崎村、領家村、針ヶ谷村、浦和町、本太村、白幡村、大戸村、中里村など、遠く緑区の村まで含まれていた


下部には内野村、水波田、並木村、下小村田村、上小村田村、上大久保村、下大久保村、大木戸村、大西村、上加村、下加村、串引村、円阿弥村、山久保村、大成村、大和田村など、旧大宮市の村の名前が多く見られる。両側面合わせると約90ヶ村。現在の西区から緑区までとその範囲も広く、それだけ多くの人たちがこの石橋を利用したということだろう。
地蔵堂 中央区上落合5-6-2[地図]


さいたまスーパーアリーナの西、埼京線の線路と中山道に挟まれた住宅街の交差点の角に上落合地蔵堂があった。入口の脇に細長い小堂が南向きに立っている。


小堂は4つのブロックに分かれていた。左のブロックには二基の馬頭観音文字塔が並ぶ。


左 馬頭観音塔 安永6(1777)駒型?の石塔の正面「馬頭觀世音菩薩」両脇に造立年月日。右下に際造立とあり、左下に個人名。


右 馬頭観音塔 大正10(1921)駒型の石塔の正面「馬頭觀世音」塔の左側面に施主ふたりの名前が刻まれている。


隣のブロックは二基の庚申塔。左 延宝2(1674)、右 延宝3(1675)江戸時代最初期の貴重な庚申塔で、どちらも教育委員会の解説板が設けられていた。


板碑型の庚申塔で、主尊も邪鬼・二鶏・三猿も彫られない純粋な文字庚申塔は江戸時代初期にしか見られない。中央を彫りくぼめた中に七行の銘文。大事なところだけ、二行目「庚申日端然守護□當行願円満之」、五行目から六行目「壹會誦經其後造立石浮図一軀□供養之儀願以□功徳衆病悉除心身安樂」浮図=仏のこと。この庚申塔造立の由来である。縁の部分、左に造立年月日。下部に十人ほどの名前が刻まれていた。


右、駒型の石塔の正面に三眼・六臂の青面金剛立像を浮き彫り。白カビもなく風化もほとんど見られず、本当に驚くほど美しい。彫りも丁寧で細かいところまで行き届いている。日月雲は線刻。髪の間に蛇がのぞく。六臂の持物がユニーク。体の前の手には剣と法輪。上の右手に矛、左手に独鈷杵、下の右手には蛇を持ち、左手に羂索を持つ。像の右脇「新刻此尊像伏仰二世安」左脇に造立年月日。


足元に邪鬼・二鶏の姿は無く、正面向きに座る大きな三猿だけが彫られていた。その下の部分、右端に庚辛講結衆 觀蔵院とあり、13名の名前が刻まれている。


次のブロックにも二基の石塔。左 觀世音菩薩塔 宝暦14(1764) 右 地蔵菩薩塔 明和9(1772)


左 角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に「西國 坂東 秩父 大慈大悲觀世音菩薩」塔の右側面に造立年月日。


右 角柱型の石塔の正面、上部を光背の形に彫りくぼめた中に合掌する地蔵菩薩坐像を浮き彫り。その下に「奉納一萬地蔵大菩薩」左脇に戒名。塔の左側面、上部を光背の形に彫りくぼめた中、こちらは輪光背を負った二臂の如意輪観音坐像を浮き彫り。その下に「四國八十八ヶ所移第三番」四国移霊場標石を兼ねている。右脇に戒名とその命日。左脇に是ヨリ観音寺江九丁余 觀蔵院。小堂のブロックの仕切り板が邪魔になって社品は撮れないが、塔の右側面に造立年月日。その両脇に願主 個人名が刻まれていた。


一番奥のブロックに六地蔵塔 宝暦2(1752)右端の光背には安政4(1821)の紀年銘があり、あとから補われたもの。右から2番目の地蔵像も左の4体と違って像の表面が溶けていて、これも後補されたものと思われる。


左の4体もそれなりに風化が進み、顔はのっぺらぼうに近い状態だった。左端の地蔵像の光背右脇に念佛講中三十人。左脇に造立年月日が刻まれている。


境内に入ってすぐ左手、大きな石碑の前に二基の石仏が並んでいた。


左 地蔵菩薩立像 享保14(1729)高さ2m近い丸彫りの地蔵像。台に白カビが見られるが、風化は少なく大きな欠損もない。真ん丸なお顔に切れ長の目。彫りも細かく丁寧で美しく、ゆったりとした佇まいがいかにも「お地蔵様」という感じがする。


反花付き台の正面、右から百万遍 供養佛 講中 二十三人 願主□給。最後に造立年月日が刻まれていた。


右 如意輪観音坐像 貞享2(1685)大きな舟形光背に六臂の如意輪觀世音。右手は頬にあてて腹前に宝珠、右足裏に念珠を持つ。左手は法輪を掲げ、胸前に未敷蓮華を持ち、左ひざに上に置く。光背は一部が大きく破損していて、白カビも多く見られるが銘はしっかり残っていた。光背右脇「此如意輪講奉供養志二世安樂所」左脇に造立年月日。


蓮台の正面 狭いところに銘が刻まれている。中央付近に願主 □誉□だろうか?左右にもうすくひらがなで名前がいくつか刻んであるようだがうまく読めなかった。


二基の石仏の奥、ブロック塀の前に卵塔などが多く立ち並ぶ。歴代住職の墓石が集められている中、外反した隅飾型の笠を持つ宝篋印塔 明暦2(1656)発達した相輪が目を引く。基礎正面に「為當寺開山法印鏡宥・・・」とあり、開山塔らしい。



お堂の右、墓地の入口に 屋根型の笠を持つ宝篋印塔 寛政3(1791)平成22年に改修されたもので、大きな基壇の上に立つ。塔身四面に四仏の種子が刻まれていた。


基礎正面に「宝篋塔」敷茄子の下の反花付き台の正面に「三界萬霊等」両脇に當村惣檀中爲先祖代々一切之精霊也と刻まれている。


基礎の左側面に偈文。右側面に武州足立郡上落合村。助力 宗源。江戸神田平永町 願主 覺直。裏面に造立年月日。続いて 大成邑大成山普門禪院 導師 現住大法叟謹誌之と刻まれていた。