JR武蔵野線脇墓地 朝霞市上内間木784
秋ケ瀬橋の西の信号交差点から川に沿って南に向かう県道79号線。
道なりに進みJR武蔵野線の高架の手前左側に小さな墓地がある。
敷地の南側、一列に石塔が並んでいた。
一番手前
巡礼供養塔 造立年不明。正面 全体に真っ白な中、上部に梵字で
阿弥陀三尊を表し、その下に「奉巡礼坂東秩父西國為二世安樂也」と刻む。
塔の右側面
武州新座郡上内間木村。左側面 施主 丸沼覺圓と刻まれていた。
個人の墓石が続き、一番奥に子育て地蔵菩薩坐像
安永5(1776)隣の石塔の上に
あったものと思われる。
塔の正面「奉造立地蔵尊百万遍供養佛」両脇に「天下和順」「日月清明」さらに
新座郡上内間木邑 善女講中 願主
浄因と刻まれていた。左側面に年号。右側面に
施主
丸沼覺圓とある。先ほどの巡礼供養塔と同じ施主だった。当然巡礼供養塔も
安永期あたりの造立ということになるだろう。
子育て地蔵菩薩坐像。光背全体に白カビが広がっている。上部に梵字「カ」
上内間木交差点角 朝霞市上内間木318
県道79号線を南に進む。途中左手に阿弥陀堂があるがここは次回に紹介する。
上内間木交差点の左の角、信号機の下に石仏が並んでいた。
左 庚申塔
宝暦11(1761)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。
瑞雲や手の表現など彫りは細かく、青面金剛も迫力がある表情をしている。
足の両脇に二鶏。足元の邪鬼は仰向け。三猿は小さくかわいい。両端の猿は
それぞれ片手で耳と目を塞ぎ、残りの手には桃の枝を持っているようだ。
塔の右側面
中央に「奉建立庚申」両脇に造立年月日。下部に9人の名前を刻む。
塔の左側面
中央に普門品講中。右脇武州新座郡 左脇 上内間木村。こちらも
下部に9人の名前が刻まれていた。普門品講中=観音講中だろう。なぜ庚申塔?
右
ここでも坐像と石塔が並んでいる。坐像はこの石塔の上に載っていたのだろう。
石塔の正面
梵字「バク」その下には「奉書寫一部供養佛」両脇に法一字、華一字。
右側面「三界萬霊等」と刻まれていた。
塔の左側面
武州新座郡上内間木村。下部には檀越助力、惣村中と刻まれている。
さらに裏面に
武州入間郡宮寺村 筆主 密門子と刻まれていた。宮寺村は
狭山のほうの旧村名らしい。どんな縁があるのだろうか?
塔の梵字「バク」から判断して釈迦如来坐像。頭部に補修の跡が見られる。
ちょっと頭をかしげて考え事でもしているかのようで面白い。
安養院阿弥陀堂 朝霞市上内間木11
秋ヶ瀬方面から県道79号線を南に進みJR武蔵野線の高架の下をくぐり少し行くと
左手に阿弥陀堂の墓地がある。墓地の入口の小堂の中に六地蔵と地蔵菩薩立像が
立っていた。手前両側に石灯籠、左後に宝篋印塔も見える。
中央に地蔵菩薩立像。その両側に六地蔵菩薩立像
明和3(1766)右から2基目の
像は頭部が補修されている。5基の台にはそれぞれ6つづつ戒名が刻まれていた。
一番右の台の正面
梵字「カ」の下「奉造立六地蔵尊万人講」両脇に「天下泰平」
「国土安全」さらに造立年月日が刻まれている。右側面
武州新座郡上内間木村
願主
小寺氏。脇に安養院住 法印□□とあった。
中央
地蔵菩薩立像 承應4(1655)光背上部に「念佛供養」江戸初期の作品らしく
右手に非常に長い錫杖を持つ。光背左に年号。右脇には
武州新座郡内間木村
女人衆と刻まれていた。その造立年から考えると驚くほど美しい。
手前左右に一対の石灯籠
元禄14(1701)左右の銘文は同一。正面 阿弥陀三尊の
梵字の下「奉建立石燈念佛
為佛果菩提也」下部に右から願主蓮随 講中敬白
六十二人と刻まれていた。左側面に年号。右側面
武州新倉郡内間木村と刻む。
小堂の左後ろ
宝篋印塔 享保11(1726)基礎部正面に万人講中とある。その裏面
年号に続き、導師舘村寶幢寺法印明賢、助成上内間木村中。さらに同村
願主
野嶋伊右衛門
敬白と刻まれていた。
六地蔵の手前から北を見ると奥にお堂が立っていて、手前左に石塔が見える。
出羽三山供養塔
文政9(1826)正面 月山・湯殿山・羽黒山 三所大権現。両脇に
天下泰平・国土安全。下の台の正面には10人ほどの名前が刻まれていた。
塔の右側面に年号。左側面には武州新座郡上内間木邑
講中と刻まれている。
お堂の右手から墓地のほうに入ってゆくと、その一番奥、コンクリートの台に
無縁仏がまとめられていた。左手前に小型の石塔がいくつか並んでいる。
手前
馬頭観世音塔 文政5(1882)右側面に施主 2名の名前が刻まれていた。
奥
自然石に「馬頭觀世音」裏面に年号 昭和十五年 祭主 個人名を刻む。
今回、朝霞の石仏の資料として「朝霞の石造物」朝霞市教育委員会
を参考に
して取材を始めることにした。この資料によると阿弥陀堂には阿弥陀三尊立像、
三面六臂の馬頭観音立像、十一面観音坐像など貴重な石仏がほかにも多数ある
ということで楽しみにしていたのだが、そのことごとくが見つからなかった。
資料は平成4年刊で20年以上前のものとはいえ、いったいどこに行ったのか?
あちらこちら歩き回って、ふとお堂の丁度裏のあたりにあるブルーシートに
気が付いた。
近寄って見ると重石のように使われていたのは丸彫りの地蔵菩薩立像だった。
資料に載っている写真と見比べると元文4年の寒念佛供養の地蔵菩薩立像に
よく似ている。このブルーシートの中はどうなっているのだろう?さすがに
無断でのぞくわけにもいかず、これ以上の取材はあきらめたが、はたして
資料にあった石仏たちと巡り会う日がくるだろうか?